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訴訟活動

2007年3月31日 (土)

仕事とは~佐藤可士和さん~【松井】

Cimg1943

 今朝の朝日新聞土曜版では、アートディレクターの佐藤可士和さんが取り上げられていました。
 私の印象では、昨年あたりから、その仕事の結果だけでなく、ご本人がいろいろな媒体に取り上げられ、その職場や仕事のやり方、思いなどが露出するようになっていました。

 今日の記事を読むと、ますます興味を持つとういか、佐藤可士和さんに対する関心が高まりました。
 正直なところ、一分の隙もなく何かにこだわるということはあまりない、むしろ好きではないのですが、矛盾かもしれないけど、些細なことに妙に心惹かれて愛着するということがあります。モノに対して。

 写真は、愛用しているモノたちです。フランスのロディア社のノートパッドに、コンピュノート社のコンピューターの本物の基盤で創られたノートフォルダ、アマダナ社の計算機に、ゲンテン社の筆箱。
 なぜ気に入っているかというと、もちろんブランド名などではなくデザインやそのモノから感じられるセンスに心惹かれるからです。


 心がウキウキさせられるのは、創った人の遊び心、軽やかな感じのなかに思い入れ、細心の心遣いを感じられるモノです。
 写真にうつっているモノたちからは、私はそういった「弾み」を感じます。
 逆にいえば、「考えなし」のモノたちからはマイナスの波長を感じて、嫌な気分になってしまいます。「考えなし」の対極が、私の心を弾ませる「考えあり」のデザインのモノたちになるのだと思います。
 

 佐藤可士和さんが創り出すモノたちからは当然ですが、「考えあり」のまさにとぎすまされた意識を感じます。そしてのその仕事に対する姿勢を語る、掲載されている佐藤さん自身の言葉にはいろいろと印象深いものがあります。

 以下、3月31日付け朝日新聞「be」からの引用です。

 

「僕が『広告は、見てもらえないものだ』と思って、作っているからでしょう。」
  
 「多くの広告は、見てもらえるという前提で作られている。だからどうしても、あれも言いたい、これも入れたいと欲が出る。でもそれ以前に、とにかく目や足を止めてもらわなきゃならないのに。それには広告に、価値を与えなきゃだめです。」

 「突破口は、とことん本質に向き合うことだと思う。そして本質をつかんだら、余計なものは徹底してそぎ落とす。難しいですけどね。」

 「単なる提案にとどまらず、最後に具体的な形、モノまでつくるところは普通のコンサルタントとは違います。そしてそれは、デザイナーにしかできないと思いますから。」

 「僕の仕事は、相手から答えを引き出すことだから。」
 「だから僕は、たくさん質問をして『本当はあなた、こうしたいんじゃないの?』ということをズバッとつかんで、鮮やかに解決したいんです。」

 「僕はむしろ、いろんな人と仕事をすればするほど、どんどん自分の中に知恵が入ってくる。そしてそれが別の仕事で役立つんです。



 仕事とはこういうものかもしれないと思いました。
 裁判官に読んでもらえると思って、本質に欠けたダラダラとした書面を作ってちゃダメだし、相談者、依頼者の方に分かってもらえる、聞いてもらえると思って、分かりににくい言葉で話したらダメだし。

 「突破口は、とことん本質に向き合うこと」

(おわり)

2007年3月27日 (火)

裁判官と判決~転勤の季節に思う~【松井】


 3月も終わり。
 以前、何度か仕事をさせていただいたことがある会社の担当者の方が転勤で東京に異動ということで、後任の方と一緒にわざわざ事務所まで挨拶に来てくれた。
 自身の立場上、やむをえずというのでもなく、本当に親身に従業員の方のことを心配し、気遣って仕事をされていた方だった。
 こちらの都合で夜中に携帯電話に電話させていただいたことも何度かあった。
 転勤ということを聞いて少し寂しく思った。困難な状況でも穏やかさを失わない姿勢は見習いたいと思っていた。


 4月。転勤といえば、裁判官や検事も転勤の季節である。
 弁護士8年目となっても今更ながらに、いや8年目だからこそ、裁判の怖さがわかり、判決というものはつくづく分からないものだと思うことが増えるようになった。
 一番大きかったのは、以前のエントリーでも触れた遺言無効確認の事件の判決だ。
 尋問前の和解の際、合議体の担当裁判官からは心証開示をされ、この遺言は無効と判断せざるをえない
といったメッセージが明確に発せられていた。
 勝つことはできなくても、負けるわけにはいかないのが裁判と考えている。
 依頼者と共に和解の途を模索した。
 しかし、どうしても譲れない部分があり、敗訴判決を覚悟で、和解を打ち切った。

 判決言い渡し期日までの間。
 
 合議体の部長が交代した。
 そして判決言い渡しが延期されること、数回、数ヶ月。
 正直なところ、期待が高まった。
 そして、判決は、遺言は有効との判決であった。

 相手方の弁護士に対しては気の毒にも思わないでもない。和解の際の裁判官からの心証開示によって
勝訴を確信していたはずである。
 ところが・・・。
 自分が相手方の弁護士の立場でなくって本当に良かったと心の底から思った。
 と同時に、改めて「判決」の怖さを思い知った。
(ちなみに控訴審でもひっくり変えることはなく、安堵のため息)

 担当する裁判官によって右か左かを左右することがあるのである。
 だからこそ、三審制がとられている。
 それにしても。怖いったらありゃしない。
 これが裁判の実態の一つであると受け入れるしかない。
 受け入れて、準備することだけが出来ることである。

 ちなみに、各法廷の担当裁判官は最高裁のホームページから調べることが出来ます。
 だけど、なかなか探しづらい場所に格納されています。
 大阪の民事の法廷については下記のとおり。
 4月、どのように変わることやら。
 私が今担当している事件の裁判官に変更があるのか否か。
 ま、この点は前回の法廷で「転勤されますか?」と当然、確認していますけど。  


大阪高裁 民事
http://www.courts.go.jp/osaka-h/saiban/tanto/minji.html

大阪地裁 民事
http://www.courts.go.jp/osaka/saiban/tanto/minji_tanto.html

大阪家裁
http://www.courts.go.jp/osaka/saiban/tanto/kasai_tanto.html

2006年9月16日 (土)

恐怖心~刑事裁判というもの~【松井】

1 
 先日、10か月ちかく審理が行われた刑事事件の判決言渡しがありました。起訴事実は強盗致傷という法定の量刑が最低でも懲役6年という重大犯罪です。
 私が弁護人を務めた被告人に対して、検察官は懲役6年を求刑していました。
 結果、裁判所はというと、懲役1年6か月、執行猶予3年というものでした。
 3人の強盗の共犯事件として起訴されていたのですが、強盗の共謀について皆、否認し、裁判所も強盗の共謀は、事前においても、現場においても認めるに足る証拠はないとして、検察官の主張を容れなかったものです。
 しかしながら、傷害の幇助、窃盗という点では犯罪が成立するものとして上記の判決となったものです。


2 
 判決の理由の読み上げを聞く限り、裁判所は、捜査段階における被告人らのいわゆる自白調書、検察官が作成した調書について、その信用性を認めませんでした。
 事後に判明している状況をもとに「理詰め」で行われた取調べによる結果、被告人は、当時の自己の内心について任意に述べたものであるが、その他の事情も勘案し、その自白に信用性はないとしたものです。
 被告人らには捜査段階では弁護人は付いていませんでした。
 私や他の弁護人は、起訴されてから就いたものです。検察官から提出された被告人らの調書を見て驚きました。自白調書がしっかりと作られていました。しかし被告人から直接に事情を聞く限り、当時の内心はどうも違います。
 なぜ、このような調書が作られたのか。
 被告人に尋ねると、取調官から、●●なら△△でないとおかしい、△△のはずだと理詰めでの取調べを受けると、いや違う、□□なんですと説明しても分かってもらえない、自分でもうまく説明できない、結果、根負けするようなかたちで△△という自白調書に署名して指印をしたのですという。

 

 公判廷においては、被告人の本当の言い分、□□なんですということを尋問し、なぜ△△という調書ができたのか、しかしその△△という調書の中身はいかに他の証拠と矛盾するのかを反証、弁論していきました。
 もちろん公判立会の検察官は、公判廷での□□という言い分が自己の刑責逃れの供述にすぎない、捜査段階の△△が信用性が高いのだということを立証していきます。

 そして裁判所は、自白調書の信用性を認めませんでした。



 もしこれが反対の結論だったら。

 被告人は、確かに一部犯罪を犯したかもしれない、しかし自身に問われる身の覚えのないより重大な犯罪を犯したものとして刑罰を受ける。
 その恐怖を考えたら、出た結果に安堵すると共に判決言い渡し後、それまで緊張で突っ張っていたものの支えがはずれ重い何かに全身を押しつぶされるような感覚に襲われました。

 被告人が適切な弁護を受ける機会がいかに重要か。もしこの権利が保障されていなかったら。裁判官の理由の朗読を聞いていて、「死刑台のエレベーター」という映画を思い出しました。

 日本国憲法の37条3項では次のように定められています。
 「刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。」
 
 松本智津夫被告人の死刑が昨日、確定したという。

 控訴審の弁護人はなぜ控訴趣意書を期限に提出しなかったのか。その判断の是非を判断するだけの情報を私は持っていないし、弁護人として難しい判断を強いられた状況であったと考えますが、量刑はともかくとして、この死刑判決確定に至る手続きそのものは刑事裁判としてはあるべき姿ではないと感じます。
 
 犯罪は憎むべきものであり許せませんが、犯罪者を裁く手続きにおいてはその手続きに関わる者において、まさに人が人を裁く手続きなんだという畏怖の気持ちがなくなったら単なるセレモニーになってしまいます。
 
 今、ウッディ=アレンの「マッチポイント」という映画が上映されています。テニスのネット上のボールが、向こう側に転がるか、こちらに転がるか。それは全くの運。
 自分は今、こちら側にいるけど、何かの間違いであちら側にいくかもしれない。この畏れの気持ちがあれば、このような手続きでの判決確定について違和感をぬぐいさることはできません。

 また、まもなく「カポーティ」という「冷血」を書いたトルーマン=カポーティの映画も上映されます。その映画の台詞で次のような台詞があるそうです。「僕と彼(一家殺害犯人)は同じ家の子どもだ。違いは、僕は玄関から出て行き、彼は裏口から出て行ったということだ。」
 
 カポーティの「冷血」を読み直そうと思います。
  
(おわり)

2006年6月 2日 (金)

裁判官とのコミュニケーション ~効果的な訴訟活動のために~【松井】

1 
 裁判・訴訟手続きとは、相手方との口喧嘩ではありません。もちろん。相手が意に反する主張を行い、それに対する反論を行うこと、そのものが目的ではありません。

2 
 判決・結論を出すのは裁判官です。裁判官は何について結論を出すのかというと、原告の訴えに理由があるか否かです。
 原告の訴えは、「請求の趣旨」として、金○○円を払え、あるいは登記手続きをしろ、あるいは遺言が無効であることを確認しろといった簡潔な表示がなされます。
 この原告の訴えを基礎づけるものとして、「請求の理由」が主張され、お金を返してもらう約束でお金を渡したのに、返してくれない、あるいは遺言書作成当時、おじいちゃんは意識不明だった、といった具体的事実を主張立証していくことになります。


 事実の主張は、請求の趣旨を基礎づけるためのものです。相手方に反論するためのものではありません。
 となると、主張を訴えるべき相手は誰なのか?
 誰を説得しないといけないのか?
 相手方ではありません。裁判官です。
 相手方にぐうの音をはかせることが裁判の目的ではありません。


 ということから、裁判官にこちらに有利な判決をいかに書いてもらうのかという手段が問題となります。
 決定的な客観的証拠があれば、それを提出すればすみます。しかし、裁判になるような事件でそのような場合は稀です。
 裁判官に有利な判決を書いてもらうには、裁判官に喧嘩を売ったって無意味です。裁判官を怒らせたって得することはないでしょう。裁判官も人間です。
 そこでいかにサービス精神を発揮させるのかということが大事なのではないかと思います。


 サービス精神。
 それは手取り足取り、もっていきたい方向へいかに裁判所をエスコートできるかということです。
 サッカーで、パスを出し、これでシュートを決められない選手が悪いといっても始まりません。シュートを決められるようなパスを出す方に責任があるといえます。

 そこで大事なのはサッカーでも同じだと思いますが、コミュニケーションです。一人でやっているのではないということです。
 コミュニケーションとは相手が何を考えているのか、どう感じているのかということを知ろうとすることだと思います。

6 
 ということで、近畿弁護士連合会、通称近弁連の雑誌83号に掲載せれていた「大阪高等裁判所と近畿弁護士連合会民事控訴審運用改善協議会との民事控訴審の審理充実に関する意見交換会」についてのレポートをここに自分用にメモしておきます。

 まあ、要は、高等裁判所の裁判官から弁護士に対する苦言・要望です。

以下、
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

1 控訴理由書、準備書面の提出期限の厳守

  印象として、50日の期限が守られている事件はほとんどない。
  1回目催告後提出 20%
  2回目催告後提出 50%
  第1回期日直前がかなりある。
  被控訴人の反論も踏まえて充実した心理を行うということが出来ない。

2 控訴理由書の内容面1

  分量だけが多く、かえってわかりにくいものが多い。
  原審判のどの部分に不服があるのかを1枚程度の「要旨書」で明らかにして欲しい。
  原審通りの主張部分は、「原審第○準備書面第○項の通り」の記載でOK。
  書証や人証も調書の該当部分の引用でOK。再度の記載は、不要。
  
  小見出し、目次を作成するといった工夫をして欲しい。

3 控訴理由書の内容面2

  原判決の「当事者の主張」欄の記載に過不足があるなら、控訴理由書でその旨を明示して欲しい。
  判例・通説では、「原判決事実適示の通り原審口頭弁論の結果陳述」とすると、第一審で主張され第一審判決に記載されていない事実は控訴審の裁判の資料にならない。

4 証拠説明書を提出して欲しい。
  一覧性のあるもの、かつ主張との関連性が簡潔に引用されているものがベター。

5 文書送付嘱託、調査嘱託の申請は、第1回期日前、おそくとも控訴理由書提出までに。

6 原審で却下された証拠について控訴審において証拠調べを求めるときは、再度証拠申請書を提出し、控訴審で証拠調べする必要性を十分記載してほしい。

7 書証を提出する期日には、書証原本の持参を。

8 陳述書の証拠価値
  証人尋問を経ない陳述書の証拠価値は、非常に低い、あるいはほとんどない。
  人証申請のない陳述書を認めるべきでないと思う。
  証人尋問終了後に提出された陳述書についても、同様。

  裁判所も弁護士も陳述書の危険性についての感覚が鈍磨しているように思う。
  陳述書は、準備書面と証拠の間を埋める程度のものという理解。
  常に、反対尋問の機会は保障するようにしている。

  陳述書は作文。
  心証は証人尋問で直接取るべきもの。
  ところが、陳述書のみで判決している事案がある。
  裁判所もどうかと思うが、証人申請をしていない弁護士の対応にも問題がある。

  陳述書の印象と尋問結果の印象が一致することはほとんどない。
  やはり事実認定には、主尋問が必要である(反対尋問を強調しすぎる必要はない)。
  このことを若手の裁判官や弁護士に伝えていく必要がある。

以上
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


 なるほどなあと思う次第です。まぁ、レベルが低い話もなくはありませんが・・・。
 ちなみに、陳述書を出しながらその陳述者の証人申請をしない代理人弁護士というのは、おそらく自らその陳述書の価値に重きを置いていないということなのだと思います。だからこそ、裁判所も価値をおかないということは当然だと思います。

 自戒の意味で、弁護士年数が経ってくると、おそらく思いこみ、独りよがりの訴訟活動というものが増える可能性も高まるわけで、主張や証拠の提出、あるいは尋問においても、まったく独りよがりの活動しか出来なくなってしまう可能性もおおいにあるわけで。
 こういう裁判所の声も、修習中は裁判所に身をおき裁判所の中からいろいろと目にし、耳にする機会もあるのですが、弁護士になると意識していないとなかなか耳に入りません。
 そういう意味では、こういった協議会とその協議の結果の発表というのは素晴らしいシステムだなあと思っています。
 かといって裁判所にこびを売る、おもねることを良しとするわけでは決してありません。
 よき緊張関係とでもいうんですかね。

 7月、控訴審第1回となる事件が3件も重なっています。
 ということで、控訴審裁判官が何を考えているのか、多少、参考になりました。

(おわり)