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著作権法

2007年6月 4日 (月)

アップル社、吠える!~ものごとのバランスについて考える~【松井】

林檎の歌 さんのブログから知りました。
アップルが「文化庁は著作権行政から手を引け」と主張

政府が行った、「○「知的財産推進計画2006」の見直しに関する意見募集の結果について」が公表され、
アップル社からの意見が公表されています。
4番目が「アップルジャパン(株)」の意見です。

総括として、

「文化庁著作権課に依る一方的な行政運営には理解不能である。徒に著作権者団体
の意見のみを汲取り消費者、機器メーカーの立場は無視し続けている。」
と記されています。

ちょっと感情的な表現にすぎる気もしますが、著作権の世界において「消費者」の声ってどれほど代弁されているのでしょうか。
消費者は、消費する人にすぎないのだから、黙って口を開けて落ちてくるものだけを口に入れておけばいいという発想でしょうか。
文化も消費者があって初めて成り立つ世界なのは当然であって、そうでないなら、人知れず山奥で一人、絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を作って演奏していればいいということ。
認めてくれる「消費者」がいて初めて、職業としては成り立つわけで。

今の状況は、アップル社が指摘するように、バランスが悪いのは事実ではないかと思います。

じゃあ、どうしたらいいのか?いろいろと方策はあるかと。
坂本龍一も確かがんばっていたし。声高に自らの権利主張だけをするのではなく、顧客の利益とのバランスを考える。

それにしても、昔、新書で「著作権の考え方」という元文化庁の職員が書いた本を読んだことがあるのですが、
「それはあなた、著作権の考え方じゃなくて、あなたの考え方ではないの?」という読後感を持ったことを思い出しました。
傲慢さが鼻についたということでしょうか。日本の著作権行政を自画自賛していました。

著作権法の学者の先生方にもがんばってもらいたいと思います。
どこへ行く、著作権法。

2007年2月26日 (月)

まねきTV事件~事実を尊重せよ~【松井】

Tv

 まねきTV事件というものがあります。去年の8月、仮処分決定が出たときは裁判所のホームページでも速報でその却下決定が公開されていました。
 判例時報18年12月11号でもその決定が掲載されています。
 また事件当事者のまねきTV側ではそのホームページで、抗告審の決定も載せています。
 申立人である債権者、テレビ局側が全面的に負けた事件です。

 

 
 先日研修の際に聴いた、元最高裁判所判事であった滝井弁護士の弁でも印象に残っていたのは、「最高裁判例を変えるのであれば事実を変えないといけない」ということでした。
 つまり「事実」が裁判の基礎、要であるということです。
 事実を法律に当てはめる、法律に当てはめるために事実を歪曲することは出来ません。まぁ、確かに事実といっても証拠によって認定できる事実に限られますがもちろん。

 事実認定のための手続きとして、尋問という制度があります。

 先日、「ゆれる」という西川美和監督の映画をDVDで観ました。オダギリジョーと香川照之が兄弟役で出演している映画で、昨年公開され絶賛されていた映画です。
 観てみると、被告人となった香川照之や、弟のオダギリジョーが法廷で尋問を受ける場面がありました。
 弁護人からの質問、それに対する検察官からの質問。

 「事実」はいろいろな角度から光りを浴びせて初めてその立体像が浮かび上がる(完全でないにしても)。尋問手続きにおける反対尋問というものはそういう意味があります。
 かかる手続きを経て、裁判官によって「事実」が認定されます。
 芥川龍之介の小説「藪の中」のように、死霊となって被害者が証言することがあれば別ですが、生きている者、人間の証言はとかくうさんくさいということでしょう(もちろん、死霊の証言も本当かどうか、裏付けはありません。)。
 
 このように裁判は様々な証拠から「事実」を認定し、それを法律に適用して、裁判結果を出します。すなわち、原告の主張に理由があるのか、ないのかです。基本は二つに一つです。


 まねきTVの仮処分事件では、まねきTV社のビジネス行為は、地上波放送の送信可能化行為であって、これはTV局の送信可能化権等の著作隣接権を侵害しているので止めろといった申立てがなさたものでした。

 これに対して、裁判所は事実認定のレベルで決着をつけたといえます。もちろん、法律解釈について、債権者のほうは、かっなぁり無理な解釈を展開していますが、これはもちろん独自の見解であって、裁判所は事実をもって、侵害行為なしと判断しました。

 判例時報の方で改めて決定の全文を読んで驚いたのは、債権者側がいろいろな点で本当に、あぁ、無理な事実主張、法解釈を展開しているなぁという点です。何としても差し止めしたる!という強い意図を感じます。
 そして、事実、法解釈としては、裁判所の認定、解釈の方がやはり自然、経験則に適うと言わざるをえません。
 
 テレビ局側は、「事実」を直視して対応したらいいのにと思います。

 が、しかし、何と、仮処分も認められなかったのに、本訴を提起することにしたようです(まねきTV訴訟代理人の小倉弁護士のブログ 、WINNY訴訟で著名な壇弁護士のブログ  )。
 
 意地?ですかね・・・。
 
 訴訟でバンバン対応するという正攻法でもって邪魔者を排除していくという手段は、以前のエントリーでも触れたように、元シンガポール首相のリー・クアンユー(もともと弁護士でした。)が得意とし、効果を発揮した手法のようですが、これは大企業が小企業に対して行うときは過剰な嫌がらせでしかないと思うのですが(まぁ、シャネルが日本の片田舎のスナック、シャネルを訴え、ディズニーやコカコーラが訴訟でバンバン対応して、ブランドイメージを守っていることからすれば、あながち不当とまではいえないのかもしれませんが。)。
 しかし今回の件は、仮処分で権利がないって言われているのに、なのに本訴。不当訴訟で反訴してしまったらどうでしょ。

 がんばれ、まねきTV。
 創意工夫をしてビジネス、商売を展開する人を押さえ込む動きは、やはりどうしても基本的に好きになれません。需要があるわけだから、双方が利害を調整してハッピーになれる途を模索するのが建設的な考え方、解決の仕方ではないかと思います。もっとベターな対応があるのではないかと、何にしても。

(おわり)

2006年9月13日 (水)

エンターテイメント・ロー【松井】


 先日、「エンターテイメント・ローとは」というテーマで、大手法律事務所の著名なH弁護士の講演を聞く機会がありました。
 
 今まで断片的だった知識が、経験豊富でかつ、大変おもしろおかしく話をしてくれる先生の経験談によって、有機的に結びつき、非常に刺激的な90分でした。


2 
 H先生は、ニューヨーク州の弁護士資格も持っており、アメリカの陪審員制のもとでの著作権法侵害の概念の広がりについての話をされ、これがなるほどと興味深いものでした。
 
 アメリカでは、傾向として、主張者が、それは著作権侵害だと主張すれば、言われた方があまり抵抗することなく和解に応じる傾向があるということです。
 なぜなら、徹底抗戦となった場合、侵害か否を判断するのは陪審員となってしまうと、微妙な判断のところで、言われた方は分が悪い、負ける可能性が高いと考え、損得勘定によって和解に応じ易いからということです。0か、100かというときに、100の損害を負うくらいなら、40の損害で妥協しようという合理的発想です。

 そのため、侵害だ!と主張する方は強気でガンガン主張する傾向にあり、その代表というか、著作権等の管理について対外的にシビアな対応をしていると言われているのが、言わずと知れたあのディズニー社という位置づけになるようです。
 ちなみにコカ・コーラ社もあのコーラ瓶のデザインについてはシビアに対応しているということでした。
 
 確かに、全世界対応なので、いったんあの会社は甘い、黙っているという見方をされると、なめられて侵害されまくりということになるのでしょう。
 本屋さんが、万引犯を見つけたら例外なく警察に通報するという姿勢を表明しているのと同じですね。
 あそこはヤバイと認識してもらえたら、それで防犯効果が生じます。



 にしても。
 日本政府が「知的財産推進計画2006」というもので、「エンターテイメント・ロイヤーを育成する」ということを述べていたのは全く知りませんでした。
 
 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/keikaku2006.html
 
第4章 コンテンツをいかした文化創造国家づくり
Ⅰ.世界トップクラスのコンテンツ大国を実現する..............89
 2.クリエーター大国を実現する
  (3)コンテンツ分野における人材育成を図る..............95
    ①プロデューサーやクリエーターを育成する........... 95
    ②映像産業振興機構の活動を支援する................. 95
   ★③エンターテインメント・ロイヤーを育成する......... 96
    ④映像に係る産学官の集積を奨励する................. 96
    ⑤コンテンツ等の融合分野の人材を育成する........... 96


 先日、たまたま久しぶりに日本の子ども向けアニメ番組のエンディングを目にしました。韓国人のスタッフのカタカナの名前がずらり。
 以前、何かで読んだか、聞いたかで知ってはいたのですが日本のアニメ業界においては人材不足だかなんだかで韓国人のスタッフが力を伸ばしてきているということです。まさに、そのことを実感しました。
 日本政府が力を入れようとしているアニメーション関連の産業については実はもう他に先を越されつつある状態とか。そうなんでしょうか。

 最近、あの村上隆さんの「芸術起業論」や、今は新たな「犬神家の一族」のプロデュースをしている一瀬隆重さんの「ハリウッドで勝て!」を読んだからだと思うのですが、日本のエンターテイメント業界については、まだまだよくなる、経済規模として発展する余地があるんじゃないかと希望的です。

(おわり)

2006年8月23日 (水)

「ハリウッド」~資金調達と回収、利益獲得~【松井】

 一休みに、自分用のメモとして。

 ①「芸術起業論」村上隆(2006.6、幻冬舎)

 ②「ハリウッドで勝て」一瀬隆重(2006.8、新潮新書)

 ③「ハリウッド・ビジネス」ミドリ・モール(H13.11、文春新書)

 などなど。新書が多いけど・・・。


2 
 
 前2作は、日本での芸術と経済・ビジネスのあり方について触れられている点、共通している。

 村上隆「エセ左翼的で現実離れしたファンタジックな芸術論を語り合うだけで死んでいける腐った楽園が、そこにはあります」(29頁)。

 一瀬隆重「『みんなで我慢』的な発想が、ただでさえ縮小傾向にあるマーケットをさらにシュリンクさせていく。それに気づかない日本の映画人と仕事をするのは、私にとってフラストレーション以外の何ものでもありませんでした。」(107頁)。


3 
 
 後2作は、アメリカ、ハリウッドでの映画制作の手法あるいは映画製作上の金融について触れられている点、共通している。

 一瀬
 「現在、ハリウッドで映画ビジネスを動かしている人たちの多くは、弁護士やエージェントなどからの転身組です。コンテツ・ビジネスがますます高度化・複雑化する中で資金調達やファイナンス、マネジメントの専門家達がプロジェクトの決定権を握るケースが多くなってきているわけです。」(161頁)

 「ご存じの通り、日本映画では長い間、豊富な資金力と配給ルートをもつ大手映画会社が著作権や利益配分権を独占してきました。製作委員会方式が主流になった現在も、この構造は基本的には変わっていません。
 私は、これからの日本映画にいちばん必要なのは『クレバーかつ大胆な発想ができる投資プレイヤー』だと考えています。例えば、宣伝費をもっと増やし、洋画なみの物量宣伝をするビジネスプランも試してみたい。そうすれば何より、テレビ局の呪縛から逃れて映画を作ることができます。また、何十億という製作費をかける、ハイリスク・ハイリターンのビジネスプランも試してみたい。」(180頁)。

 「日本におけるファンド・ビジネスは、ちょっと歪んだ形で育ちつつある。もともと『映画ファンド』というのは、企画力や製作力はあっても資金に乏しいインディペンデント・プロデューサーや独立系のプロダクションのためにあるべきです。ところが現実は逆で、ほとんどの映画ファンドが、既存の大手映画会社と金融機関の組み合わせでしか機能していない。それでは(お金もうけのツールとしてはともかく)、日本の映画界にとって本質的なプラス効果は望めません。」(185頁)。


 ミドリ・モール
 「メジャーに映画を供給する独立系製作会社は、どうやって資金調達しているのか。そのひとつに、金融機関から融資を受ける方法がある。」
 「担保となるのは、映画の配給契約である。配給契約とは、映画を配給する人たちが、ネガの提供と引き換えに保証額(ミニマム・ギャランティー)を支払うことを約束する契約のこと。」
 「通常、配給会社は映画が完成すると、ネガの提供と同時に保証額を製作会社に支払う。製作会社は、映画が完成するまで保証額を受け取ることができないのだが、その配給契約を担保に金融機関から資金を融資してもらい、それで製作費を捻出する。金融機関は、映画完成時に、配給会社から直接、保証額を返済してもらうという寸法だ。」
 「このユニークな資金調達方法は、もともとはホロウィッツの独壇場だったが、1992年頃から、映画融資が儲かることに気づいた様々な銀行が、このビジネスに算入し始めた。」(212頁)。


4 雑感

■ 
 信託に関する法律の改正によって、映画製作資金を信託によって集めるということがいっとき新聞で話題とされていました。
 ところが、まぁ、金融機関が手数料分もうかるだけだったというのが現状のようです。さもありなん。

■ 
 一方、アメリカの金融機関は、「映画融資が儲かる」、というか、儲かるシステムを作り上げて独立系の製作会社に融資しているようです。
 持続可能な、皆ハッピーとなる意味のある「儲かる仕組み」を見つける、作り上げると言う点では、日本の金融機関はやはりまだこれからなのかもしれません。「銀行収益革命」川本裕子(2000.2、東洋経済新報社)を思い出しました。副題は、「なぜ日本の銀行は儲からないのか。」。

■ 
 一瀬氏のいうテレビ局の「呪縛」が気になるところ。あぁ、まだ「電波利権」(新潮新書)を読んでいない。
 一方で、「テレビCM崩壊」という邦題の本(2006.8、翔泳社)が出ていたことを思い出す。

 「エンタテイメント契約法」内藤篤(2004.7、商事法務)。「民法テレビ、それも伝統的な地上は放送ビジネス構造は、基本的にはコマーシャルの放送枠の販売であり、つまりは『時間』こそがテレビ局の売っている『商品』である。」(262頁)。「テレビ番組は、それが自社製作であれ外注製作であれ、製作時点でその回収はいわば終わっているし、ほとんど常に、マイナスになることはないのである。」「テレビ局は番組作りに対して金銭的リスクを負っていないのである。」(265頁)。

 ここまで言うと、テレビ製作の人間は、「いや、その売る時間に付加価値を付けられるか否かが、コンテンツの力なんだ」ということで反論できるんでしょうけど。
 ただ、他に比べれば、中身が出来る前に先に売れるので、資金回収は確かに済ませられているといえるかもしれません。その分、リスクが少ないと。

■ 
 映画の金融スキームの構築は、映画を理解している人じゃないと本当のところ、無理なんだろうと思います。日本の金融機関にそのような人材と許容性があるかどうか。人材はあると思うんだけど。
 まぁ、一瀬氏のように、日本を相手にせずに、世界というかアメリカを相手にすれば、アメリカから資金は調達できるんだろう。
 村上氏も同じか。日本に愛想を尽かし、欧米を相手に作品を1億円以上で売るいわばスキームを作り上げた人。
 一瀬氏が強調しているが、「清貧」という言葉に甘んじることなく、皆がハッピーに儲かる、経済的自由を手に入れられる仕組みがないといけないというのが印象深い。まさに、「道楽」と「ビジネス」の違い。
 
 村上ファンドの村上氏の言葉を思い出す。「儲けちゃ駄目なんですか。」。もちろん、儲けるのは悪いことではない。それで幸せになるならいいことだ。ただ、儲け方が不公正な方法だと、それは問題というだけのこと。

■ 
 なぜこんなことに興味があるのかというと、もともとが根っからのテレビっ子で映画好きということに原因があるかと。今でこそ、テレビを見ることはほとんどありませんが。
 一瀬氏の本に出ていた、スパイダーマンの監督で有名なサム=ライミ監督は、その22歳だったか24歳だったかのときの監督デビュー作、「死霊のはらわた」以来のファンでした。中学生のころ(80年代前半)、ホラー映画ブームがあり、四日市で上映されたホラー映画は同じくホラー好きの友人と二人、前売りチケットをコレクションしながら片っ端から見尽くしました。その中でもずっと衝撃的だったのか「死霊のはらわた」でした。名作だと思っていました。

(おわり)

2006年7月 4日 (火)

アリス・コレクション~フィギュアの著作権~【松井】


 数年前、友人の執務机をふと見る機会がありました。一見していわゆるおもちゃと分かるアリスやうさぎの5センチもない人形が数点、飾るようにして並べてありました。
 何それと訊くと、おもちゃ付きお菓子で売られているシリーズの人形で、よく出来ていて可愛いのでコレクションしているということでした。
 その数年後。判例時報1928(18年7月1日号)号で、「菓子のおまけ用フィギュア製造のための模型原型の著作物性が認められた事例」として大阪高裁平成17年7月28日の判決が紹介されいていました。
 訴訟は、原告・海洋堂、被告・フルタ製菓というものです。

2 
 おまけはチョコエッグなどのおまけとしてシリーズ化されており、争いになったのは、動物シリーズ、妖怪シリーズ、そしてアリスコレクションの3シリーズでした。原審は、全てについて著作物性を否定していたところ、控訴審は妖怪シリーズについてだけ、著作物性を認めました。
 「本件妖怪フィギュアに係る模型原型は、石燕の『画図百鬼夜行』を原画とするものと、そうでないもののいずれにおいても、一定の美的感覚を備えた一般人を基準に、純粋美術と同視し得る程度の美的創作性を具備していると評価されるものと認められるから、応用美術の著作物に該当するというのが相当である。」。
 
 決めては、これでしょうか。「本件妖怪フィギュアは、石燕の原画を忠実に立体化したものではなく、随所に制作者独自の解釈、アレンジが加えられていること、妖怪本体のほかに、制作者において独自に設定した背景ないし場面も含めて構成されていること(特に、前記認定の「鎌鼬」、「河童」や「土蜘蛛」が源頼光及び渡部綱に退治され、切り裂かれた腹から多数の髑髏がはみ出している場面などは、ある種の物語性を帯びた造形であると評することさえも可能であって、著しく独創的であると評価することができる。)、色彩についても独特な菜食をしたものである」。
 ちなみに、「鎌鼬」は、「石地蔵の首を鎌で切っている場面」、「河童」は、「水死体から『尻子玉』を抜き取っている場面」のようです。
 
 一方、動物シリーズ、アリスコレクションは、妖怪シリーズに比べたら、独創性がいまいちだったという評価のようです。

3 
 ちなみに、問題となる条文は次のとおりです。
 著作権法2条1項1号 著作物の定義
  「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術
  又は音楽の範囲に属するもの」
 同法10条
  「絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物」(1項4号)。
 同法2条2項
  「この法律にいう『美術の著作物』には、美術工芸品を含むものとする。」

 そして解釈規範として本判例は次のように示しました。
 ①美術的創作物
  ー1 純粋美術
     「思想又は感情を創作的に表現したものであって、制作者が
     当該作品を専ら鑑賞の対象とする目的で制作し、かつ、
  一般的平均人が上記目的で制作されたものと受け取るもの」
  ー2 応用美術
     「思想又は感情を創作的に表現したものであるけれども、
     制作者が当該作品を上記目的以外の目的で制作し、
     又は、一般的平均人が上記目的以外の目的で制作
     されたものと受け取るもの」
      +
     「制作者が当該作品を実用に供される物品に応用されることを目的(実用
     目的)として制作し、又は、一般的平均人が当該作品を実用目的で制作
     されたものと受け取るもの

 ②「美術の著作物」は、純粋美術に限定されない。
   なぜなら、著作物の例示中に「絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物」と
   挙げて、「美術の著作物」には「美術工芸品」を含むと規定しているから。
   しかし、応用美術が「美術の工芸品」に該当するか否かは、条文上、不明確。

 ③そこで解釈!
   結局、応用美術の分類、さらには意匠法との保護範囲の比較検討を踏まえ、
   「応用美術一般に著作権法による保護が及ぶものとまで解することは
   出来ない」けど、
   「応用美術であっても、実用性や機能性とは別に、独立して美的鑑賞の
   対象となるだけの美術性を有するに至っているため、一定の美的感覚を
   備えた一般人を基準に、純粋美術と同視し得る程度の美的創作性を
   具備していると評価される場合は、『美術の著作物』として、
   著作権法の保護の対象となる場合があるものと解するのが相当である。」
  と判示しました。

4 
 著作権については、それこそ意匠法などとは異なり、設定登録の必要がありません。そういったこともあり、そもそも著作権が生じるのか否か、著作物性そのものが争われることがしばしばあります。
 刑事訴訟においても、人形おもちゃに著作権が認められるとして類似品を無断で製造販売して著作権法違反で逮捕されたところ、そもそもその人形には著作物性はないとして争って、原審がこれを認め、無罪判決となった裁判例もありました。
 海洋堂のアリスコレクションについても、友人は、まさに美的鑑賞の対象として、また物語性を感じながら机の上に並べていましたが、この判例はアリスコレクションについてはテニエルの挿絵を立体化したものにすぎないとして、著作物性を否定しました。


 にしても紛争の経緯で興味深いのは、業界の実態に触れた部分です。
 「従来、菓子製造業者とおまけ製造業者が、おまけとなる模型原型の制作契約を締結する場合は、模型原型の制作請負契約を締結し、請負代金は一体あたり数万円から十数万円であった。
  おまけ製造業者である原告の○○専務取締役は、優れた模型原型を制作しても、わずかな対価しか得ることができず、こうした状況に不満と矛盾を感じており、原告の制作した模型はアニメやディズニーのキャラクターと同等か、それ以上の価値があり、著作物であると主張できると考えていた。」
 そして、フルタとは、制作請負契約ではなく、著作権使用許諾契約とし、対価は請負代金ではなくロイヤルティ方式にしたという。これは、希望小売価格の2.5~3%だったということです。
 業者としてのプライドを感じました。確かに、あのフィギュアはプライドをもってもいい出来ですもんね。
 妖怪シリーズ、判例の表現を読んでいるだけでもどんなフィギュアだろうとドキドキします。見てみたい。再発売されたら買います。で、机の上に並べておきます。
 そうそう。海洋堂は、この訴訟で1億8000万円以上の請求が認められたようです。フルタが製造数量を過小報告したというものです。
(おわり)
 
 

2006年5月17日 (水)

「それって何の役に立つの?」~何のための著作権~【松井】

1 
 総論ばっかりで各論を記しておかないと意味がないといえば意味がないのですが、漠然と感じたことなどをメモ代わりにアップしておきます。いつかどこかで思わぬ時に、漠然とした思いが具体的な閃きとなって各論で役に立つことがあるので。

2 
 「デジタル時代においては、情報の複写は呼吸と同じくらい自然なことだ。現行制度は複製のたびに著作権が問題になる。文化を発展させるという、制度本来の目的に照らしてみた場合、著作権法は時代遅れだ。」。2006年5月15日付け日経新聞でのローレンス=レッシグ教授の言葉です。
 
 「十六日にメンバーの意見が一致したのは、NHKが持つ五十万本を超える過去の番組をネットで公開すること。受信料で作成した番組は公共性が高く、過去の番組を自由に見たいという消費者の声は強い。しかし、現在は番組の出演者などから個別に許可を得なければネットで配信できないことが制約となり、ほとんど公開されていない。」(同年5月17日付け日経新聞「NHK、ネットで過去番組」「配信の仕組み整備一致 通信・放送懇)。


 いつのどの新聞記事だったのかメモをとっていなかったので不明確ですが、つい最近の新聞記事で、絵本の読み聞かせについて、これは著作権違反、この場合はOKという一覧表を絵本関係の団体が作成し、公表したといった記事を見かけました。
 
 記事を読んだときの感想としては、「あほちゃうか。」というものでした。
 
 絵本を作った著作権者は、ありとあらゆる場面で著作権違反の場合について、それを問題視する、規制したい、著作権侵害で損害賠償したいといったことを思っているのでしょうか。
 大規模な違法複製等によって著作者の収入の機会が奪われるのは確かに問題です。
 しかし例えば、私立の保育園で、絵本の話を変えて読み聞かせをしたりといったような場合はどうなのでしょうか。いわゆる「目くじら」を立てるのでしょうか。
 「お目こぼし」というとちょっとニュアンスが違って、語弊がありますが、そういった観念はないのでしょうか。

 騒音や悪臭と言った生活圏侵害の問題の場合、裁判例は「受忍限度論」といったものを展開しています。
 人と人が日常生活において関わって生きていかざるを得ない環境においては、多少の迷惑行為といえるものがあったとしても、「受忍限度」を超えない限り、違法とは言えないという議論です。ある程度は、「受忍」、しんぼうしなさいねというものです。「まぁまぁ、そう目くじらを立てなさんな」といったところです。
 
 著作権の場合、著作者とその著作物の利用者との間で「お互い様」といえる関係には直には立たないかもしれません。もっとも、著作者において自己の著作物を全てにおいて完全にコントロール出来るわけではない、利用者における一定の自由を著作者に対する「受忍限度」として認めてもいいのではないかといった、荒っぽいですが、思いがあります。
 
 
 NHKの過去の番組をネットで視聴できるようにという上記の記事では次のように記されています。
 「著作権の制約が緩やかになれば、民放も自社の番組をネット経由で配信する新しいビジネスの機会が生まれる。」

 これこそが、「文化の発展に寄与すること」に繋がるのではないでしょうか。
 著作者等の権利について、砂を一粒一粒数えるように、全てを網羅・コントロールしようとする対応は、考えてみただけでも「息苦しい」思いがします。
 レッシグ教授は言ったようです。
 「デジタル時代においては、情報の複写は呼吸と同じくらい自然なことだ。」。
 自分がデジタル時代に生きているからかどうかは分かりません。ただ、やはり絵本の読み聞かせについてコントロールしようとする姿勢を見て感じるのは、「呼吸」を他人にコントロールされるくらいの息苦しさを感じるということです。
 
 著作権法という昭和46年に施行された法律が制定された目的は、「著作者等の権利の保護」ではありません。保護は手段であって、目的は、「文化の発展に寄与すること」(1条)です。

 絵本の読み聞かせの規制、それって何の役に立つの?

 素朴な疑問です。

(おわり)

追記 

朝日新聞の記事
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200605120398.html

児童書四者懇談会作成 手引き
http://www.jbpa.or.jp/ohanasikai-tebiki.htm