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2010年2月 5日 (金)

「著作権の世紀」〜あるべき姿について考え続ける〜【松井】

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 東京の福井健策弁護士による「著作権の世紀ー変わる『情報の独占制度』」(集英社新書、2010年1月)を読みました。

 大阪の川村哲二弁護士の充実したブログサイトで同著書が絶賛されているのを目にし、大阪の旭屋書店で買ったものです。川村弁護士のアマゾンリンクのサイトから買うべきだったのですが(笑)。
 http://stuvwxyz.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-c960.html

 読んでみて、つらつらと思ったことをまだまとまりがつかないのですが、備忘録代わりにここにメモとして記しておきます。
 過去にも、著作権法についてつらつらと思ったことをメモしているその延長線上のものです。
 http://osaka-futaba.cocolog-nifty.com/futaba/cat5929423/index.html


 「著作権の世紀」は、

「この厄介な制度に魅せられ、あるべき姿を考えつづけた先人たちに」
ととても魅力的な書き出しで始まっています。
 著作権でも他の法律についても、やはり根底にあるのは「どうあるべきなのか」ということであって、これは細かい条文が一度作られたらそれで終わりというものではなく、「どうあるべきなのか」をずっと「考え続ける」というのが「法律」なのだということに改めて気づかせてくれるフレーズでした。

 で。
 これからの著作権はいったいどうあるべきなのか。
 そもそもどうあるべきものとしてこの著作権法が制定されたのか。

 この点、「著作権の世紀」では問題点の指摘や、いくつかのあり得る方向性が示されています。ただ、敢えてなのだろうとは思うのですが、著者の明確な意見は声高には叫ばれてはいません。すごく抑制された文章で語られています。

 各章、ユーモアに溢れていて興味深いのですが、なかでも秀逸なのは、終章「情報の世界分割」だと思います。<情報の海>の中で、著作物、個人情報・肖像、営業秘密、商標・特許・意匠の概念と力関係が一つの図の中で図示されています。
 「著作物(創作的表現)」に対しては、「制限規定」というものが相対しています。
 
 ものごとを考えるときに私がよくやるやり方は、「もしこれがなかったらどうなるのか」と極端を考えてみるというやり方です。またそれに対し、「これがもっと規制、縛り等が強くて100%以上のものであったらどうなるのか」とこれまた対極を考えてみることです。
 
 著作権法がなかったらどうなるのか。
 あるいは逆に、著作権法がもっともっともっと、著作者に著作物の120%のコントロールを認めていたらどうなるのか。

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 こういった極端な観点をふまえつつ、じゃあいったい「どうあるべきなのか」という価値観が加わり、加減が生じるのではないかと思います。
 これはやはり法律の目的、そして憲法からしか出てきようがないのではないかと思います。これは、というのはどうあるべきかという価値観です。それに加えて、立法事実という事実を踏まえる。
 抽象的な価値観でいえば、ずっと前の著作権法に触れたエントリーでも書いていましたが、「文化の発展に寄与すること」。これしかないのではないかと思います。
 憲法が21条で情報の流通を保護の対象とした趣旨が思い浮かびます。
 「自己統治」と「自己実現」という言われ方をします。
 何をという点に焦点をあてずに、発表の自由をまず保障しています。ちなみに憲法21条2項は検閲の禁止です。
 発表させる、情報をまず市場に流通させるということに価値をおいています。
 ただその中でも特に政治上の事柄については特に保障が厚くされるべきという価値観が働いています。なぜか?考えたことがない方は一度ぜひ考えてみてください。
 
 このような観点からすれば、ちょうど一年ほど前にふれた塩澤一洋教授の「公表支援のフレームワーク」としての著作権法という捉え方が一番、しっくりくるのではないかと思います。著作権法の「あるべき姿」を考えるに。
http://osaka-futaba.cocolog-nifty.com/futaba/2009/01/post-b437.html
 
 著作権法51条で定められた著作権の「存続期間」について、現行の「著作者の死後50年」をさらに延長すべきかどうかが議論されているようです。
 まさに「どうあるべきなのか」という価値観と価値観のせめぎ合いです。
 なんのための著作権法なのか?という原点から考える意外、理論としてはないかと思います。あとは価値観と価値観の力関係か?
 

 福井弁護士の「著作権の世紀」では、「マッシュアップ」の事例として、あの知る人は知る「サザエボン」が写真入りで紹介されています。
 これは、サザエさんの方からもバカボンの方からも訴えられ、敗訴したようですが、こういうものが生まれるということこそが「文化の発展」なのではないかと思えます。
 ただ、サザエさん側やバカボン側は、自身が作り上げたものが勝手に利用され、改ざんされ、それで別の者が多大な利益を受けるということがフリーライドのようなもので許せないと言う気持ちになるのだろうとは思います。
 ただそうであるのならお金での解決をはかり、「著作物」というかはどうかは別にしても、新たな「創作物」として世の中での流通を図る方向でものごとを整備する方が種々雑多な情報の流通が図られるものとして「文化の発展に寄与」するのではないのかなという気がします。

 このあたりが私の中でもうまくまとめ切れないところなのですが。。。
 塩澤教授が言う、著作者が安心して著作物を公表できる仕組み、という視点で捉えたら、どこまでの仕組みを用意すれば足りるのかということだろうとは思うのです。
 単なるそのままの利用は別にして、いかなる場合も複製利用、改変そのものを許さない、保護期間は50年じゃなくって70年ということで、安心して公表するということに繋がるのか。 
 バカボンの赤塚不二夫さんは、「サザエボン」が登場したとき、当初は法に問うつもりはなかったようです。むしろ、「なぜ自分が考えつかなかったのか」と悔しがったとか。確かにバカボンの「うなぎ犬」も「うなぎ」と「犬」の合体でのおかしさです。

 一定のこういったものが許容される著作権法であって欲しいと私は思います。 
(おわり)
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