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2010年2月

2010年2月20日 (土)

専門家のコミュニケーションの意思〜39歳、初めての病気入院〜【松井】

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 先日、背中の肩甲骨のあたりが今迄に感じたことのない刺すような痛みが続くことがありました。
 肩こりがひどくなったのかと気にはなっていたのですが我慢できない痛みでもなく放置していました。
 数日後、電車に乗っていると、呼吸しにくくて苦しさを感じることがありました。
 その翌日の朝、道を歩いていると、目眩がして、呼吸が本当に苦しく、右足がガタガタと震えて、このまま道端で失神してしまうのではないかと思う状態になりました。ぐっとふんばって耐えたら、その後持ち直しました。その日、そのまま日帰り東京出張に出かけました。取りやめにしようかとも思ったのですが、行かないわけには行かず、なんとか新幹線に乗り、ひたすら背もたれに身を預けてぐったりとしていました。
 翌日、さすがにまずいと考え、午後診で近所の内科を受診しました。症状を伝えると、すぐにレントゲンを撮られ、「気胸やわ。」と言われました。見せられた肺のレントゲン写真は、左胸の上部の方だけが黒くなっていました。肺が破れ、もれた空気が胸腔内に溜まり、肺を圧迫しているということでした。
 紹介状とレントゲン写真を渡すから、すぐにこの病院へと言われました。
 今からですか?と訊くと、何をバカなことを言っているのかという顔をされました。

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 タクシーで、紹介された病院に行きました。すぐにまたレントゲン写真を撮られ、「気胸や。」と言われました。「入院できる?すぐに処置が必要やわ。」と。
 管を差して、空気を抜くということでした。
 息は苦しいのですが我慢できないほどではありませんでした。
 しかし、これはやはり動き回らない方がいいのかとその場の空気を察し、そのまま即入院になりました。
 近所の内科を受診して2時間後、病院のベッドで横になり、脇腹に麻酔を打たれて管を入れられました。
 あまりの痛さに身動きできず、またレントゲンを撮る際には座薬を入れられたうえで車いすで運ばれました。
 そのまま2日間、夜もよく眠れず、ひたすら内蔵にあたる管の痛みに耐えるだけの日々でした。
 
 入院直前、慌てて依頼者の方々に連絡をとり、直接にお電話で話をしたり、スタッフの方から事態を説明してもらって、予定していた打ち合せをキャンセルさせていただきました。
 幸い、裁判期日は次の火曜日まで入ってはいませんでした。また翌日は、祝日。なんとかなおそうと思いました。


 うまくいけば金曜日には管が抜けるとのこと、当日、CTを撮りました。肺の空気はほとんど減ってはいませんでした。管を差したのは若手の医師でした。主治医のベテラン医師曰く、「管の位置が『効率の悪い場所』にあった。」ということでした。管を差し直すということになりました。
 今度はベテラン医師です。チクっとする痛みに耐え、8cmほど管を抜いたといことでした。
 このまま月曜日まで様子を看るということになりました。
 数日経過して慣れたせいもあるのか、ようやく管を入れていることの痛みもそれほど感じなくなりました。
 しかし、お風呂には入れません。何もしなくても、人の体は油を帯び、独特の臭いを発し、髪の毛もべったりとしてくることが分かりました。
 チェスト・ドレーン・バックを据え付けたローラー付きポールを手にして、ようやく1階の売店などにも一人で出向けるようになりました。
 しかし、常に、脇腹からは管が出て、自由には動けません。
 ものすごい無力感を感じました。


 そして月曜日、肺のもれは治まっているようだということで、管を抜きました。若手医師が担当です。様子を見て、翌日退院ということになりました。
 翌日、レントゲンを撮ると、肺の空気が抜けきっていないということでした。
 退院できるという喜びが一瞬のうちに引いていきました。
 困った表情を見せながら、医師は、自然に消えると思うので一応、退院にしておこう、苦しくなったらすぐに来て、と言って、病室を去っていきました。
 そして、午前9時30分、退院しました。個室の料金8万円ほどどと医療費8万円ほどでした。


 こうして初めての病気入院の6日間が終わりました。
 ご迷惑をおかけした依頼者、ご相談予約の方々には大変申し訳ありませんでした。
 若くて、背が高く、やせ形の男性に多いというこの病気。なぜ私がなったのかは分かりません。特に管楽器を演奏するということもなく。運動は週に一度、1500mを泳ぎ、さらにはヨガ教室でヨガをしていました。それなりに運動はして、健康管理に努めているつもりでした。
 「健康管理は責任感から」という言葉もあるようですが、自身ではどうしようもないことがこの身に起こります。
 また、「病院」という特殊な場所においては、患者は本当に無力だということがよく分かりました。
 最初の夜は、痛みと情けなさとで、消灯の21時以降、暗い中で、ブクブクブクブクとドレーン・バックの音だけが聞こえていると、自分が金魚鉢の中に入れられたようで、泣きたくなりました。
 痛みが取れたら取れたで、ただあまりにも非日常のため、スタッフに仕事道具を持ってきてもらっていたのですがなかなか集中してとりくめず、結局、友人がもってきてくれた「ノルウェイの森」上下巻をベッドの上で読むくらいのことしか出来ませんでした。
 また、このまま空気が抜けず、手術をせねばならないとなったらどうしよう、その手術でもしかしてミスがあったらとグルグルと考えてしまい、「遺言書」を書いておこうかという気持ちにもなりました。入院を経験すると遺言書を書きたくなるというのは本当でした。


 そして何よりも考えたのは、「病院」という特殊な空間において働くドクターやナースの働き方と「法律事務所」で働く人々との対比です。
 今回、ドクターは若手もベテランも、私に言わせれば信じられないほどのコミュニケーション能力のなさでした。私の病状、今後について、きちんと時間をとって説明するということがほとんどありませんでした。唯一あったのは、2日目、CTを撮ったあとのCT画像を見せながらの説明のときくらいでした。
 ドレーンも、その管に出た液が何を意味するのか、どういう状態ならどういうことなのか、気胸という病気はどういうものなのか、退院後、どういうことに気をつけたらいいのかといった、患者として知りたいことについては何も積極的な情報発信がありませんでした。
 驚きでした。
 なぜなら、私もまだまだ不十分かもしれませんが、自身が法的なこと、訴訟手続きのことなどを依頼者の方に説明する場合、極力、理解を確認しながら、本当に理解してもらっていることを確認しようと務めながら接していたからです。そういった意欲はまったく感じませんでした。
 様子を病室に看に来ても、ドレーンの様子をみたら、さっと病室を出て行ってしまいます。
 忙しいのだろうからと思い、私もいちいち説明を求めること、質問をすることももうしませんでした。なんだかこの人たちにそういうことを求めても無駄なような気がしていたからです。初診の際から、レントゲン写真を見せつつ、あとは電子カルテの記入入力をひたすらおこなって画面の方ばかり見て、患者の方を看ようとはしていない姿に驚いていました。ベテラン医師がそういう態度であれば、当然、その弟子の若手も同じような態度を患者にとるものだろうと納得していました。疑問にも思わないのだろうと。
 
 またナースの方々も、多少、愛想はあったものの、似たような印象を受けました。脈拍をとる、聴診器で胸の音を聞く、指に機械を挟む。でもその機械が何の機械で、数値が何を意味するのか、聴診器で聞いた胸の音に異常があるのか、ないのか。何も言わないということは、まあ悪くはないのだろうと理解せざるをえませんでした。
 
 一言で言うと。
 全てが流れ作業で、機械的でした。

 これが今の病院の一つの姿なのかと驚きました。
 ナースの中には、もちろん積極的に声をかけてきてフレンドリーな方もいらっしゃいました。友人のナース曰く、今の病院は「感情労働」であって、本業以外のところで神経をすり減らし疲れるということだったけど、確かにそういう面もあります。
 ただ、患者としてまったく無力な状況で病院という施設に入り、なすがままでしか存在がありえないという者にとって、このような「病院」の存在は余計な不安感をさらに与えるだけなんだろうと思います。
 私の場合、ネットで気胸の情報を確認したり、ナースの友人からいろいろと教えてもらって安心を得ました。
 なので、今回は、多くを求めず、とにかく水準の医療行為をしてもらえたらそれでいいと自分で納得していました。コミュニケーションはとれないけど、客観的な行為としてしかるべき医療行為、判断をしてくれて、治ればそれでいいと思いました。

 ただ、何も分からない無知な立場の人にとって、その不安感を解消させるのは「情報」と「コミュニケーション」だと実感しました。ただ黙々としかるべき専門家としての行為をしていれば、それで専門家として事足れりというものではないと。
 
 「法律事務所」に「弁護士」を訪ねて相談に来られる方々も同じ気持ちなんだろうと思います。慣れれば、別にどうということはないのですが、初めて弁護士に相談するとなると、自分は何も分からない無知な状況で、知識と経験のある人の力を借りにくるのだと思います。
 そのとき、弁護士や法律事務所のスタッフが、相談者とコミュニケーションをとろうとはせず、機械的に対応したら。
 水準の行為をしていたらそれでいいのか。
 相談者にしたら、分からず、放り出されたような感じで、自分の知らないところでことが動き、泣きたくなるのではないかと思います。
 
 今回、本当にいい経験でした。
 そしてまた。「気胸」というすぐに深刻な状態等になることはない程度の病気で良かったと思います。
 「一病息災」ということで、これからの日々を過ごしていきたいと思います。

追記 弁護士1年目のとき、遺産分割の審判までを他の弁護士に依頼していたという方が、その弁護士に不満を抱き、即時抗告を他の弁護士に依頼したいということで、私が担当になったことがありました。その方のお話をお聞きして、なるほどと思っていました。曰く、とにかくその前の弁護士は、その依頼者との方との「時間」をとっていなかったのです。期日、裁判所で待ち合わせをしても、会ってそのまま部屋に入り、終わったらそのままサッと一人立ち去っていく。依頼者の方にしたら、本当に相手にされていない、話ができないという不満感を持っていたのです。客観的には、それなりに書面上、きちんと仕事をされていたように見えました。しかし、いくら客観的に素晴らしい仕事をしたとしても、依頼者の方にそのことが伝わっていなければその仕事は存在しないに等しいものだということを一年目にして分かったのは私は幸せでした。独立して自分で仕事をコントロールできるようになってから、極力、時間を取るよう努めてはいます。それで依頼者の方が本当に納得していただいているかどうか、もしかしたらご不満をおもちのこともあるかもしれませんが。
 ただ。不満の声は、本人の耳には入りません。。。私の耳には入らない。法律事務所も、弁護士も「お客様アンケート」を実施すべきなのかもしれないなどと考えています。

(おわり)
 
*朝食。なんとなく泣きたくなるような姿でした。
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2010年2月 5日 (金)

「著作権の世紀」〜あるべき姿について考え続ける〜【松井】

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 東京の福井健策弁護士による「著作権の世紀ー変わる『情報の独占制度』」(集英社新書、2010年1月)を読みました。

 大阪の川村哲二弁護士の充実したブログサイトで同著書が絶賛されているのを目にし、大阪の旭屋書店で買ったものです。川村弁護士のアマゾンリンクのサイトから買うべきだったのですが(笑)。
 http://stuvwxyz.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-c960.html

 読んでみて、つらつらと思ったことをまだまとまりがつかないのですが、備忘録代わりにここにメモとして記しておきます。
 過去にも、著作権法についてつらつらと思ったことをメモしているその延長線上のものです。
 http://osaka-futaba.cocolog-nifty.com/futaba/cat5929423/index.html


 「著作権の世紀」は、

「この厄介な制度に魅せられ、あるべき姿を考えつづけた先人たちに」
ととても魅力的な書き出しで始まっています。
 著作権でも他の法律についても、やはり根底にあるのは「どうあるべきなのか」ということであって、これは細かい条文が一度作られたらそれで終わりというものではなく、「どうあるべきなのか」をずっと「考え続ける」というのが「法律」なのだということに改めて気づかせてくれるフレーズでした。

 で。
 これからの著作権はいったいどうあるべきなのか。
 そもそもどうあるべきものとしてこの著作権法が制定されたのか。

 この点、「著作権の世紀」では問題点の指摘や、いくつかのあり得る方向性が示されています。ただ、敢えてなのだろうとは思うのですが、著者の明確な意見は声高には叫ばれてはいません。すごく抑制された文章で語られています。

 各章、ユーモアに溢れていて興味深いのですが、なかでも秀逸なのは、終章「情報の世界分割」だと思います。<情報の海>の中で、著作物、個人情報・肖像、営業秘密、商標・特許・意匠の概念と力関係が一つの図の中で図示されています。
 「著作物(創作的表現)」に対しては、「制限規定」というものが相対しています。
 
 ものごとを考えるときに私がよくやるやり方は、「もしこれがなかったらどうなるのか」と極端を考えてみるというやり方です。またそれに対し、「これがもっと規制、縛り等が強くて100%以上のものであったらどうなるのか」とこれまた対極を考えてみることです。
 
 著作権法がなかったらどうなるのか。
 あるいは逆に、著作権法がもっともっともっと、著作者に著作物の120%のコントロールを認めていたらどうなるのか。

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 こういった極端な観点をふまえつつ、じゃあいったい「どうあるべきなのか」という価値観が加わり、加減が生じるのではないかと思います。
 これはやはり法律の目的、そして憲法からしか出てきようがないのではないかと思います。これは、というのはどうあるべきかという価値観です。それに加えて、立法事実という事実を踏まえる。
 抽象的な価値観でいえば、ずっと前の著作権法に触れたエントリーでも書いていましたが、「文化の発展に寄与すること」。これしかないのではないかと思います。
 憲法が21条で情報の流通を保護の対象とした趣旨が思い浮かびます。
 「自己統治」と「自己実現」という言われ方をします。
 何をという点に焦点をあてずに、発表の自由をまず保障しています。ちなみに憲法21条2項は検閲の禁止です。
 発表させる、情報をまず市場に流通させるということに価値をおいています。
 ただその中でも特に政治上の事柄については特に保障が厚くされるべきという価値観が働いています。なぜか?考えたことがない方は一度ぜひ考えてみてください。
 
 このような観点からすれば、ちょうど一年ほど前にふれた塩澤一洋教授の「公表支援のフレームワーク」としての著作権法という捉え方が一番、しっくりくるのではないかと思います。著作権法の「あるべき姿」を考えるに。
http://osaka-futaba.cocolog-nifty.com/futaba/2009/01/post-b437.html
 
 著作権法51条で定められた著作権の「存続期間」について、現行の「著作者の死後50年」をさらに延長すべきかどうかが議論されているようです。
 まさに「どうあるべきなのか」という価値観と価値観のせめぎ合いです。
 なんのための著作権法なのか?という原点から考える意外、理論としてはないかと思います。あとは価値観と価値観の力関係か?
 

 福井弁護士の「著作権の世紀」では、「マッシュアップ」の事例として、あの知る人は知る「サザエボン」が写真入りで紹介されています。
 これは、サザエさんの方からもバカボンの方からも訴えられ、敗訴したようですが、こういうものが生まれるということこそが「文化の発展」なのではないかと思えます。
 ただ、サザエさん側やバカボン側は、自身が作り上げたものが勝手に利用され、改ざんされ、それで別の者が多大な利益を受けるということがフリーライドのようなもので許せないと言う気持ちになるのだろうとは思います。
 ただそうであるのならお金での解決をはかり、「著作物」というかはどうかは別にしても、新たな「創作物」として世の中での流通を図る方向でものごとを整備する方が種々雑多な情報の流通が図られるものとして「文化の発展に寄与」するのではないのかなという気がします。

 このあたりが私の中でもうまくまとめ切れないところなのですが。。。
 塩澤教授が言う、著作者が安心して著作物を公表できる仕組み、という視点で捉えたら、どこまでの仕組みを用意すれば足りるのかということだろうとは思うのです。
 単なるそのままの利用は別にして、いかなる場合も複製利用、改変そのものを許さない、保護期間は50年じゃなくって70年ということで、安心して公表するということに繋がるのか。 
 バカボンの赤塚不二夫さんは、「サザエボン」が登場したとき、当初は法に問うつもりはなかったようです。むしろ、「なぜ自分が考えつかなかったのか」と悔しがったとか。確かにバカボンの「うなぎ犬」も「うなぎ」と「犬」の合体でのおかしさです。

 一定のこういったものが許容される著作権法であって欲しいと私は思います。 
(おわり)
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