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2009年1月11日 (日)

「裁判」の目的〜筆跡「鑑定」〜【松井】

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*左から3つ目。事務所ビルの外観です。小洒落ています。川沿い、最上階、眺め良し!です。


 昨年平成20年11月27日、大阪高等裁判所において、京都の鞄屋さん、一澤帆布社に関する判決がありました。新聞の社会面でも記事が掲載されていたのでご存知の方は多いかと思います。
 この判決書を読み、「筆跡鑑定」というものについて素朴な疑問をもたれた新聞記者の方から、意見を聞きたいということで年末、取材を受けました。取材を受けたというか、記者の方の素朴な疑問を聞く機会を得て、こちらの方が学ぶことが多かったです。
 こういう機会があると、自分の今いる世界、やっていることが当たり前だとは思わずに、多くの人の率直な、素直な意見に敢えて耳を傾けることは大事だなとつくづく思いました。そうでないと、依頼者の方とうまく意思疎通がはかれなくなってしまいます。



 今回の裁判においては、双方互いに、複数のいわゆる「筆跡鑑定書」というものがとびかっていたようです。これは刑事事件における精神鑑定においても珍しいことではありません。
 ということもあり、弁護士である自分にしてみれば、結論の異なる「鑑定書」が出ていても、ふーんというだけのことであり、そもそも他の文献、裁判官が「筆跡鑑定」をどうとらえているのか、そもそも裁判所は「鑑定」というものに対してどう接しているのかという実務を踏まえれば、裁判所が、遺言が有効か否かが争われているときに「筆跡鑑定」の結果だけで結論を出すことはまずない、ほとんどないという前提で、特になんとも思わないところでした。
 しかし、記者の方は、「鑑定」というからには、判断方法、判断基準が確定されている科学的、客観的なものなのではないか、それが、以前の判決では、遺言は有効とされ、今回の高裁判決では無効とされる、「筆跡鑑定」っていったいなんなのですか、ということでした。
 これが素朴な意見なのだと思います。

 今回、勝った方の一澤信三郎帆布の方でも、「筆跡鑑定」に対する、そもそもの信頼とその信頼の揺らぎについてそのHP内で触れられています。

 http://www.ichizawashinzaburohanpu.co.jp/cgi-bin/topic.cgi?m=0&i=20081128000

「それなのに、敢えてあきらめずに、裁判に訴えたのは、「悪いことをして、それが通ってしまう世の中ではいけない」と思ったからです。
 また、これほど科学技術が進歩した現代社会で、筆跡鑑定という分野が、学問的にまだ十分に確立されていないことを、今回の裁判で初めて知りました。
 私達の訴えが、世の中の筆跡鑑定というものに警鐘を鳴らし、筆跡鑑定がきちんとした科学的な学問になり、ひいては筆跡学学会が立ち上がることにつながればと願っています。そしてそれが、偽造文書で誤った裁判がなされて、つらい思いをしてこられた方々への一助となれば、本当に嬉しく思います。」



 たぶんわたしをはじめ、多くの弁護士は、「筆跡鑑定」というものの証拠としての信用性については多くを期待していないのではないかと思います。にもかかわらず、なぜ、裁判で「筆跡鑑定」というものが登場してくるのか?
 筆跡鑑定を生業とされている方には失礼な表現になるかもしれませんが、わたしは「気休め」と表現しました。
 「鑑定料」を支払う経済的な余裕があり、それを証拠として提出することを望む依頼者の方の意向でしかないのではないかと。
 訴訟代理人たる弁護士が、遺言無効確認の訴えで、切り札として「筆跡鑑定書」を出すなどということはまずありないと思います。その時点で、負けを認めるようなものだと思います。
 この点については、次の文献を記者の方に知らせました。わたしの経験上のものは、これらの文献の大方と合致します。
  ・法曹会「民事訴訟における事実認定」
  ・判例タイムズ1247「効果的立証・検証・鑑定と事実認定」
  ・判例タイムズ1194、1195「遺言無効確認請求事件の研究(上)」「同(下)』
 遺言が有効か否かが大きな争点となる裁判においては、裁判所は、遺言書作成に至る種々の事情、人間関係、状況、被相続人の性向等まで考慮して、一つの事実の認定として、遺言が有効か否かを判断するのがおおよそです。
 


 今回の大阪高裁判決も、判決書全文を目にする機会がありましたが、同様です。
 ただ、多くの「筆跡鑑定書」というものが入り乱れていたこともあるのか、各「鑑定書」に対しても、かなり詳細に触れています。判断の仕方、そもそも比較する文字の選出の仕方に基準があるのか否かといったことについても触れられています。
 そして、鑑定書の結果にこだわらず、他の諸般の事情を鑑み、今回問題となっている遺言書が、作成名義人である被相続人によって自署されたものか否か、その意思に基づくものといえるのか否かが判断されています。



 余談ですが、ここで興味深いのは、民事訴訟法的に、最高裁判所がどのように判断するかという点があります。つまり、既に確定した別の訴訟の判決では、今回問題となっている遺言書は有効と判断されています。
 これに対し、今回の大阪高等裁判所は無効と判断しました。
 どういうことか?新聞でも報道されていましたが、当事者が違うのです。前回は、相続人たるご主人が、今回は株主たる奥様が、同一の遺言書を巡って無効を主張し、前者は敗訴、後者は今回、勝訴したのです。
 このような争い方が許されるかどうかということです。
 これは、そもそも遺言無効確認訴訟が、遺産の範囲確認の訴えのように、最高裁判決で、固有必要的共同訴訟とされていないことに原因があります。つまり、争う人は、最初から皆当事者として原告か被告にならないとだめだよ、ということです。
 訴訟の目的は、一般的には、確定判決による紛争の終局的解決にあるとされています。
 今回のように二度も三度も同じ、争点で争えるとなったら、訴訟の解決機能が損なわれます。
 この点を最高裁がどう判断するのか。
 また、もしかしたら「筆跡鑑定」というものに対しても一定の見解をしめすのかもしれません。それは上告、上告受理申立書の内容にもよるかとは思いますが。



 そして。興味深いのは。
 裁判の目的に対する、今回の当事者の方の考えです。
 相続人である一澤信三郎さんの考えは、上記に現れているのだと思います。
 「悪いことをして、それが通ってしまう世の中ではいけない」
 お金の問題ではないということだと思います。
 
 こういう相談者の方に対しては、わたしは弁護士としては、裁判は、必ずしもそこで正義がとおる、真実は一つとは限らない、裁判は証拠に基づく、証拠があってもその評価は裁判は裁判官しだいの面もある。だから。三審制がとられているんですよ、と説明します。
 費用対効果、経済的合理性に欠ける訴訟に突入しようとするとき、止めた方がいいと勧めたうえで、それでもと仰るときは覚悟してもらいます。

 ただ。よく考えると、とはいえ。
 弁護士も同じです。
 人間です。感情があります。
 訴額40万円で提訴された方の訴訟代理人を割に合わない費用で受任することもなきにしもあらず。
 なぜか?
 おかしい、許せない、という思いが沸き上がるからです。NOVAのあの平成19年4月の最高裁判決の訴訟代理人の弁護士がいい例だと思います。
 訴訟代理人を受任するからには、出来れば和解で終わるのが依頼者のためになるという思いが常にあるのは当然として、和解をするにしても、勝訴的和解を考える以上、最大限の力を注いで、勝ちにいきます、当然。勝ってやる!と思ってやっています。
 メラメラと戦闘意欲に燃えます。
 このとき、確かに、訴額40億円という訴訟と訴額40万円という訴訟では、正直なところ多少、なんらかの差はあるかもしれませんが、40万円だからといって手を抜くという弁護士は、いないのではないかと思います。
 なぜなら。
 弁護士は。
 自分の名前で仕事をしているから。

 つまり。
 自尊心、プライドが高くならざるをえない。
 自分が訴訟代理人となって名前を出している裁判で敗訴判決なんて得たくはありません、普通。
 
 裁判の目的は。やるからには勝つことです。
 で、「筆跡鑑定」なるものは、ないよりはまし、依頼者の方が費用を支払う余裕がある、それを得ることを望んでいるという場合に、攻撃方法の一つとして、わたしなら気休めですが、提出する証拠の一つに過ぎない、ということだと思います。
 ないよりはあった方がましかな?という。
 でも、たぶん、あっても、なくても決定的な違いが生じることはほとんどない、という位置づけとわたしは考えています。
 
 で、記者の方も仰っていましたが、筆跡鑑定の学会は出来ないのか?多分、出来ないとわたしは思います。
 シロかクロか、曖昧なところだからこそ現在、なりたっている世界だと思うからです。
 科学的だとも言い切れない、科学的でないともいいきれない。これに敢えてシロクロ付けようという当事者の方が現れれるか否か。出現の期待はしていますが、統一しきれないのではないかと思います。
 誰も皆、自分の存在価値を否定されたくはないというのが通常だと思います。
 「筆跡鑑定人」に限らず、「弁護士」も同じです。
 でも、もしかしたら。
 数年後。「弁護士」の存在価値も否定され、雲散霧消している可能性も否定はできませんね。
 刑事弁護人だけで十分じゃん、弁護士なんて、という時代もあるかも。
 裁判なんて誰でも出来るよ!って。
 そもそも裁判制度がなくなることはあり得るんでしょうかねえ。ぶつぶつぶつぶつ。
 憲法改正か?
 なぜ裁判制度が憲法で定められているのか?
 そこまでいかなくても、調停、仲裁がどんどん利用されていくのか。
 どうなんだろう。

(おわり)
*茂木健一郎さんのブログではないけど、頭に浮かんだこともそのままに流れもつらつらと書き留めています。つまり。推敲していないので、話があっちへいったりこっちへいったりとまとまりがなくてすみません。
*しかも。今回、前に大橋のブログが!ただ、一応、週に2つをノルマとして自分に課しているので大橋と同じ日になるけどアップします。 

*四日市の諏訪神社です。私の遊び場でした。
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