2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

最近のコメント

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

flickr


« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月

2008年10月31日 (金)

日弁連速報〜裁判員裁判〜【松井】

2951649876_1f54e2d7861
*先日、裏千家の宗家拝観をさせていただく機会がありました。数百年という歴史を前に、いろいろと思うところがありました。Aさん、ありがとうございました。


 FAX新聞のように、ときどき日弁連速報が事務所にFAXで送られてきます。
 今日届いたもの。
 裁判員号外No.4
 斜め読みすると興味深いことが書かれていたので、ここにメモ代わりに。


 「講師バーバラ・バロン(NITA)のオープニングスピーチについて」
 NITAというのは、全米法廷技術研修所らしいです。
 そこから指導者4名を招聘し、日弁連で実践的な研修が行われたようです。

 「日本の弁護士は、これまで裁判官のみを説得対象として活動してきました。しかし、これからは裁判員という一般市民も説得対象となります。今、裁判が変わろうとしています。新しい法廷弁護技術は、裁判員も理解し、共感することができるものでなければなりません。
 かつてアメリカでは、刑事事件において、弁護人が必要不可欠であるとの認識はありませんでした。しかし、ギデオン事件(Gideon Case)によって、弁護人の存在が必要不可欠であることが認識されました。次に、タンクレフ事件(Tankleff Case)によって、弁護人が存在しているだけでは不十分であることが分かりました。冒頭陳述で約束したことを立証活動によって果たす必要が有るという法廷弁護技術の原則に従わなかったのです。弁護人は、存在しているだけでは駄目で、依頼人のために効果的な弁護活動をしなければなりません。
 今、裁判員を説得するための新しい法廷弁護技術が日本弁護士に必要とされています。新しい法廷弁護技術を身につけることによって、依頼人の権利を守ることができ、正義が実現されるのです。」
 
 「法廷は劇場です。裁判員の興味を惹き、楽しませなければなりません。」
 
 この「裁判員を楽しませる」とは、「伝え方を工夫しろ、という意味」だそうです。


 「弁護人は、存在しているだけでは駄目で、依頼人のために効果的な弁護活動をしなければなりません。」
 民事事件の代理人弁護士、代理人活動も同じです。
 何が「効果的」なのか。
 まずは弁護士自身が余計な敵を作らないということが必須ではないかと思います。
 そのためには、代理人として対外的に活動する際には、謙虚に、礼儀正しく、相手に思いやりをもって振る舞う。
 弁護士に限らず、たぶんきっと、人としても大事なことだと思います。
 皆が皆、そうは行動できない、そのように行動できる人の方がむしろ少ない。
 だから。
 謙虚で礼儀正しい人に出会うと、感動するのだと思います。


 最初の出会いで過去、一番感動した出来事は。

 アメニティアドバイザーとしてご活躍されている、近藤典子さん(http://www.hli.jp/)とお会いした際のその後の出来事でした。
 
 数年前、友人の誘いで、とある場でご一緒させていただいたことがありました。名刺交換をさせてもらいました。
 ただ、その日、その場は慌ただしく、また今度ゆっくりご飯でもご一緒にという言葉と共に、1時間ほどで私はその場を後にしました。よくある社交辞令として何とも思っていませんでした。
 
 しかしその数日後、事務所で夜8時ころ、仕事をしてると電話が鳴りました。電話をとった同僚が、「松井さん、近藤さんという人からの電話だよ。」と言います。
 「近藤?」と怪訝に思い、電話口に出ると、数日前にお会いした近藤さんでした。大阪でまたその友人らと一緒に食事をするので、よければご一緒にというお誘いの電話でした。
 びっくりしました。
 まさに有言実行。
 
 実は、当時、当然、平日昼間のテレビなどを見ることもなく、「収納のプロ 近藤典子先生」の存在を知りませんでした。友人が心の師匠として数年来お世話になっている方、友人が「近藤先生」と呼ぶ方としての認識しかありませんでした。名刺交換をさせてもらっても、いったい何をされている方なのかも知りませんでした。
 そうであっても、数日前の言葉を自ら実行し、友人経由ではなく、直接、自ら電話を架けてきてくれた、そのことにびっくりしました。
 
 近藤典子さんのご活躍を知ったのはその後のことでした。
 テレビ出演に出版。
 やはり出来る人は行動が人とは違う、人が出来ないこと、しないことをするのだと身をもって知りました。
 人に感動を与えられる人は、普段の行動からして違うのだと勉強になりました。


 弁護士の仕事も、法廷でよい弁護技術、弁護活動を見せようと思えば、おそらく、仕事を離れた普段の、日常の言動からして、違うものでなければならないのではないかと思います。
 法廷の場だけ別人格になって、紳士淑女然とした言動など、出来るわけがありません。

 だから。
 「誰に対しても対応は変えないこと。心穏やかに、親切に、丁寧に。」と書いた紙を机の前に張っています。

 なぜならば。
 実行できていないからです、もちろん。実行できていたら紙に書いてはったりしません。
 人間修行は難しい。
 弁護士修行は、人間修行だわ。
 近藤典子さんには、まだまだなれません。メディアの中でも、メディアの外でも変わらない。
 法廷の中でも、法廷の外でも変わらない。
 うーむ。

(おわり)
 
*「法廷は劇場」。関西テレビをバックに。
2957921460_fc3c95075a


2008年10月29日 (水)

頑張る経営者の方への想い【松井】

2950759285_e3b2959fe2

 よくブログで書くように、実家は有限会社でハンコ屋さんをやっています。
 祖父が始め、5人兄弟の長男であった父が二代目となり、兄が三代目となります。

 小さい頃、税務署の職員が調査に来たといって、母が、「凄い、帳簿からこんな小さな数字まで拾っていった。5年遡って払わなあかんらしい。」といったことを口にしながら、店舗兼自宅だった家が騒がしかったことを覚えています。
 取引先の倒産、従業員の同士のトラブル、あるいはお客さんから苦情の対応、さらには借入、その借金の返済などなど、否が応でも目に入り、耳に聞こえていました。母曰く、「うちらのような小さい自営業者は借金があって当たり前、借金があるから返済しないといけないと張りが出て、それでがんばって働こうという気になるのだ。」と。「従業員の人は大切にしないといけない。自分たち家族だけではお店はできないんだから。気は心だ。」といって、何かと渡しものしたり。さらには、「自営業はいいよ。やったらやっただけ金銭で評価を受ける。会社の従業員だったら、どれだけがんばっても決まった給与額しかもらえない。自営業の方がやりがいがある。」と母曰く。
 借金の話は、子ども心に「ほんまかいな。借金なんてないほうがいいに決まってるんちゃうん。」と懐疑的だったことを思い出します。


 朝早くから、夜は遅くまで、母は、外回りの営業、配達、ショッピングセンターに出店した店舗の店番の交代、家に帰って来てからは家事に、さらにはまたゴム印の柄付け、帳簿作成といった仕事をしていました。
 父はというと、こちらはまさに職人で、朝から夕方まで、「本店」と言われた店舗兼住宅の店舗部分で、黙々とハンコを彫っていました。で、夜になると「会合」といって飲み歩いていた記憶があります。行った先の雀荘に、母に言われて、電話を架けさせられたりした記憶もあります。そして休みの日には、ひたすらゴルフ。夜も、打ちっぱなし場へ出かける日々。
 まさに、典型的な家族経営の会社。夫は仕事と遊びに精を出し、妻はひたすら働く、といったところでしょうか。


 たぶん、意識していなくても、小さいころ、親のこうした働きぶりを見ていたせいか、自分で仕事をもって奮闘している人、自営業者、中小の会社の経営者の方にお会いすると、「頑張って欲しい、成功して欲しい」という思いが募ります。
 しがない弁護士、町医者ならぬ町弁ですが、何かお役にたてることがあれば最大限のことをしたい、サポートしたいという想いが募ります。
 経営が順調になるまでには、売掛金の回収や、事務所、店舗の賃貸契約のトラブル、あるいは従業員との雇用契約上のトラブル、あるいは顧客とのトラブルといったいろいろなトラブルの発生が考えられます。
 
 法的な知識と作るべき契約書等があれば、たとえトラブルが発生したとしても、紛争の拡大を抑えることができることが多いかと思います。
 ルーティンなところは事前に整備し、マニュアル、書式などを用意し、経営者が経営者として本来、注力しないといいけないところに注力できる環境を作り、本来の事業で安定した成功を収めてほしいと、がんばっている方々をみると思います。


 実家でも、先日、いつも割り引いてもらっていた手形の割引を金融機関に断られた、当てにしていたのにどうしたもんか、という相談がありました。
 支払を手形で受け取るということはどういうリスクがあるのか、手形の流通の現状はどんなもんか、新たな取引先と取引する際の注意点などを母に説明しました。
 母がどこまで分かっているかは分かりません。
 兄がどこまで分かっているかも分かりません。
 うちの実家の会社には、顧問の会計事務所はありますが、顧問の弁護士なんて頼んでいません。

 たぶん多くの自営業者、中小企業は、そうだと思います。
 何かトラブルがあったときに、弁護士に相談しようなんて発想はないんだろなと。
 相談した知り合いから、弁護士を紹介され、弁護士に相談するという選択肢があるという機会がない限り。
 多くは税理士さんに相談し、税理士さんからアドバイスを受けているのだと思います。法的な事柄についても。
 それでうまくいっているならそれでOKだと思います。
 税理士さんに顧問料を支払い、さらには月に1件相談があるかないか分からない弁護士と顧問契約をして顧問料を払うことはないかと思います。


 ただ、自営業者の方や、中小企業の経営者の方などに知っておいてもらいたいのは、経営上のトラブルについて、税理士さんだけではなく、ぜひ、どこかで探すなり、つてを頼るなりして、弁護士に相談して欲しい、その価値はあるということです。
 税理士さんの視点、知識、情報と、弁護士の視点、知識、情報は当然のことながら、レベルというか種類が全く違います。良い、悪いではなくて、単に違います。
 弁護士は、税法の通達なんて知りません。チェックしたりしません。
 税理士さんは、会社法、民法は知っていたとしても、訴訟の場合の裁判官の考え方、立証責任、要件事実について、たぶん知りません。チェックしたりしません。
 そういうことです。
 
 いろいろご縁があって、顧問契約といったことこそしていないものの、何かあると気軽に電話をしてきてれくて相談してくれる経営者の方がいます。もちろん仕事なので無報酬ではありませんが、相談ごと、時間制のフィーを請求させてもらっています。
 頼られると、頑張って応援したくなる。
 そんなものかと思います。
 顧問をつとめさせてもらっている会社では、新しい分野で、法整備、法解釈もままならず、関係省庁に一緒に出向いたりして、まさに一緒に道を切り開いているといったところもあります。そこの会社とのご縁は、私が弁護士1年目のとき、交通事故事件を担当し、その事故車を修理した修理工さんとして出会ったというものでした。その方が数年後、会社を興し、こういう事業をするのだけど力を貸して欲しいと請われ、以前助けてもらったご恩とご縁もあり、では今度は私の番かと、その会社の方々の事業への想いにも共感し、私自身も試行錯誤で活動させてもらっています。
 頑張られている姿を見るから、私も自分が出来ることを頑張ろう、役に立とう思います。

 頑張って欲しいです。
 山あり谷ありで、次から次へといろいろな難題がふりかかってきますが、頑張っている方の成功を目にするまでは応援していきたい、支援していきたいと思っています。
 真面目に、創意工夫をもって地道に商売をしていれば、得難いチャンスも入ってきます。
 それをぜひものにしてください。
 過去のトラブルは笑い話になるほどに成功してもらいたいと思います。

 カナディアン・メープルシロップ、買います! Oさん、頑張ってください!
 べトナムと日本との架け橋、頑張ってください、A社の皆さん!

 ほかにも、自ら奮闘、頑張っている方々、頑張ってください! 
 応援しています!!
 紛争解決、紛争予防に勤め、その方々が本来、注力すべき事柄に注力できるように。
 それが弁護士の使命の一つではないかと思っています。
(おわり)

2951634060_b7cc5d1b29


2008年10月23日 (木)

渉外相続の実務に関する研修会【松井】

2950799497_4cc40c7aa0


 先日、日本連合会主催の「渉外相続に関する実務に関する研修会」13時30分〜17時00に参加しました。
 自分用のメモがてら、ブログにアップしておきます。
 
 第1部 韓国渉外相続の実務 近似の実務上の留意点について
     〜近似の韓国家族法の改正点ほか〜 
     裵 薫 弁護士(大阪)
 第2部 外国人の遺言
     〜外国人遺言作成上の実務上のノウハウ〜
     本間 佳子 弁護士(東京)


 相続事件を多く扱うなかで、被相続人が韓国籍の方の事件をいくつか担当させていただいてきました。
 準拠法が韓国法となるため、それなりに韓国の相続法の事柄は、比較的資料、文献が入手しやすいこともあり、分かっているつもりではいました。

 が、やはり。フォローしきれていませんでした。知らなかった事柄がいくつかありました。

 常時フォローしているわけではない案件を新しく担当する際は、念のためにと常に最新情報をチェックする必要があります。
 ここ数年で怖いのは、出版物でのフォローでは間に合わないことがあるということです。
 出版社による出版物はそれなりに編集作業がほどこされているので情報の精度は信頼できるのですが、スピードがネットに遅れることがあります。
 弁護士も、まずはネットで検索する必要があります。そして文献でチェック。また人のネットワークも重要です。経験者の方に教えてもらうのは早いし確実です。
 ネットの検索は、当然、開設者によって掲載情報の信頼性がまったく異なるのでこの点が注意ですけど。


 「外国人の遺言」は、上記のとおり、被相続人が韓国籍の方のものについては比較的なじみがあるのですが、それ以外の国の方のものについては、アメリカといった何となくポピュラーな国籍の方のものであっても、経験している弁護士はなかなか少ないのではないかと思います。
 私自身も数えるほどしかありません。
 
 今回の講演の本間佳子弁護士も、アメリカ国籍の方のものは10件程度だと仰っていました。
 
 その際のポイントとしてレジュメで挙げておられたことをメモしておきます。
 
 外国人の遺言作成上知っておきたいこと
  ⑴ 遺言の方式
  ⑵ 遺言の成立と効果
  ⑶ 遺言の内容
  ⑷ 遺言執行者の指定と権限
  ⑸ 外国法に基づく他の遺言との関係
 その他の留意点
  ⑴ 相続税
  ⑵ 遺言執行時の問題(相続人の確定、検認など)

 約90分の講演でのお話は、私にとっては一応、確認作業になり、安堵するものでした。


 講師の弁護士が何度も強調されていたのは、ニーズはあるのだということでした。  
 また、最後に仰ったのは、日本での外国人の遺言作成についてはニーズがあり、しかもやりがいがあるということでした。

 遺言を作成しようとする外国人、アメリカ国籍の方の多くの意識としては、自分の死後、遺された配偶者や家族の方を守るという意識で行動されていることが多く、そのことに弁護士としてサポートし、サポートをしていくなかで信頼をうけるといった点、仕事としてもやりがいを感じると仰っていました。
 講演を聞きながら、1人激しく共感していました。

 日本国籍の方が普通に日本で遺言を作成しようとする場合、確かに、子ども達が紛争にならないように、あるいはこの子には多くを相続させようといった意味で、相続人を守ろうという意識が確かにあります。

 ただ、たまたま今、日本で暮らしているという外国籍の方の場合、もっと切実な思いがあるように思います。
 本間弁護士が仰っていたのは、自身も、アメリカで暮らしたり、立法支援活動としてカンボジアで2年ほど暮らしたことがあるが、言葉に不自由しなかったとしてもやはり異国の地では何かと不安で、心細い思いは常にある、だからこそ、日本で暮らしている外国人が日本で遺言を作っておこうという気持ちは、よく分かる、それは自分の死後、自分の家族に対し出来る限りのことをして守りたいという意識が余計に働くのだろう、ということでした。
 そのとおりだと思います。
 弁護士として不慣れな点はあるかもしれないが、それでも訪ねてもらった以上、弁護士として出来る限りのことをしてサポートしたい、愛する家族を守りたいという思いに応えたいという意識に突き動かされるのだと思います。
 自分が外国で暮らしていたら、同じような思いになるだろうなと思います。そんなときやはり力を貸してくれる、信頼できるプロフェッショナルが欲しい。

5 
 ただ、アメリカでは、Estate Planning の一環として遺言を作り、さらには信託制度が発展しているので、財産の一部に信託(Trust)を設定することにより、相続税対策が可能という面もあるようです、遺言が利用される理由の一つとして。

 数年前、相続特集で、日本テレビの「思いッきりテレビ」に出演させていただいたとき、ゲストだったダニエル・カールさんが仰っていました。毎年、遺言を作っていると。遺言を作成するというのは、ごく普通のことだったと。そんなもんかと聞いていたのですが、たぶんそうなのでしょう。
 ネットサーフィンをしていると、西海岸にEstate Planning 専門の弁護士のサイトもありました。
 
 ただ、これも以前、アメリカの信託制度に詳しい元金融マンで、現在教授をされている方とお話をしていたときに聞いたのでは、アメリカでは、信託制度といっても個々に非常に詳しい内容の契約を交わしているので、信託制度が発展しているというよりも、契約文化が発展しているのであるといったことでした。

 日本の信託法は、最近、事業承継などとからんで改正、注目されてはいますが、税務上は、やはり信託制度の利用による課税逃れといったことがらはなかなか出来ないような仕組みになっているようで、今後、信託法としてどうこうというよりも、おそらく、ニーズに対応した契約内容、超超超具体的な内容の、ごっつい、分厚い信託契約書を作成するくらいでないとなかなか相続関連については信託制度は使えないのかなという気もしています。
 

 講師の弁護士は、アメリカ留学もされておりニューヨーク州の弁護士資格も持っておられて、英語には不自由しない弁護士のようでしたので、その点、非常に羨ましく思いました。
 以前、ニューヨーク州法の相続関連の内容を調べようとしたのですがうまく文献にたどり着けず、同じくニューヨーク州の弁護士資格をお持ちの大阪の弁護士にお世話になりました。
 ああ。
 せめて読みに不自由しない程度に英語の勉強をしたいと思います。

(おわり)
 
2951623058_018af21744


2008年10月18日 (土)

相続放棄と遺産分割調停の申立て【松井】

2951640964_b462af41a9

 相続放棄という制度があります。
 民法938条。

 一方、法定単純承認というものがあります
 民法921条。

 この点、「相続人は、自己のために相続の開始があったことを知った時から三箇月以内に、相続について、単純若しくは限定の承認又は放棄をしなければならない。」とあります。民法915条1項。
 そして、「相続の承認及び放棄は、第九百十五条第一項の期間内でも、撤回することができない。」とされています。民法919条1項。もっとも、「前項の規定は、第一編(総則)及び前編(親族)の規定により相続の承認又は放棄の取消しをすることを妨げない。」(同条2項)とあります。

2 
 判例時報20年10月11日号は、「平成19年度 許可抗告事件の実情」が掲載されていました。
 最高裁破棄事件の実情なども、これは毎年必ずチェックするようにと修習中、裁判官に言われたことを思い出します。
 で、パラパラと眺めいていると、この相続放棄の事案が掲載されていました。

 最高裁1小平成19年2月8日決定

 事案 
 H18.1.30 A死亡
 
 相続人B、X
 X、Bに対し、Aの財産状況を明らかにするよう求めるが、応じてもらえず。
 X、生前、Aからは大体の預金等の金額を聞いており、負債がたくさんあることも聞いていた。  

 同 4.8 

 Cから、Aに対して2300万円の求償債権を有している旨の通知をX、受け取る。
 
 同4.12 

 X、遺産分割調停の申立て
        
 同7.6  

 X、相続放棄の申述受理の申立て


 争点 
 ①遺産分割の調停の申立てをもって、単純承認の意思表示と解されるか否か。
 ②3か月の熟慮期間の起算点は、負債の通知を受け取った4月8日か否か。

 結論 
 原々審、原審、本決定共に、Xの遺産分割調停の申立てを単純承認にあたるとし、相続放棄の申述は不適法であり、却下すべきものとしました。
 
 理由は、原審で次のように述べられているようです。
 ① 調停申立て時において、Aの遺産につき、預金及び有価証券がある程度存在すること及び債務も少なくともある程度存在する可能性があることを知った上で、申立てをした
 ② 民法915条1項所定の3か月の熟慮期間お起算点は債権者から弁済を求められた日と解すべきとする主張するが「独自の解釈に基づくものであって採用できない」。


 遺産分割の調停申立てをいつするのか、その時点で分かっていることは何で分かっていないことは何なのか、相続放棄との関係でよくよく注意して確認しておかないと、後でとんでもないことになりそうです。
 場合によっては相続放棄もありうると考えている場合は注意してください。

(おわり)
*期間の定めのある事柄は、ビクビクします。一度、経過してしまえばもう取り返しがつかない。
2950755669_17ed178722


2008年10月11日 (土)

質問する力 【松井】

2931459664_ed5e45f931
*
10月、大橋とスタッフ美濃さんの誕生日でした。おめでとうございます!


 講師などをした際、あるいは単純に人に何かを説明していたような際、聞いていた人の方から逆に質問を受けることがあります。
 依頼者の方に、現在の状況、今後の見通しなどを説明していても、質問を受けることがあります。
 質問は、質問をすることそれ自体、とても力のあることだと思います。
 ご自身で、情報をインプットし、咀嚼し、既存の知識などとの関連を精査し、その結果、アウトプットされるものだからです。
 インプットが出来ていない、インプットはできたけど咀嚼できていない、咀嚼したけどつっかえるところが何なのか整理できていない、そのような場合、「質問」は出ません。
 これは私自身が聞く立場になった場合も同様です。
 
 なので私自身は、質問を受けることはとてもいいことだと考えています。
 私の説明が不適切だったのか、あるいは不十分だったのか、あるいは聞いた話を消化、発展させたうえでの質問なのか。
 どちらにしても、質問を受けるとこちらも何らかの気づきを得ます。
 しかし中には、質問されると怒り出す弁護士もいるとか、いないとか。
 なぜ怒るのだろうと考えると、たぶん、自分自身がうまく説明できていない、それを指摘されたように感じるからなのかと想像します。指摘される、批判されることになれていないからか。分かりません。


 ただ、質問をする場合であっても、いわゆる礼儀というものを要求されることもあります。
 私が質問をする立場の場合なら、それを考えます。
 もちろん私が依頼者であって、弁護士に質問する場合は、遠慮会釈なく、分からないことは分からない、ある程度素人にも分かるように説明して欲しいと求めます。その方が依頼した弁護士とのコミュニケーションに資するので。
 
 礼儀が要求される場合というのは、相手とはまさに一定の距離感があるときです。
 例えば、その話の大前提として一定レベルの知識があることが前提されて話がされているようなとき、講師の専門家に質問するのであれば、礼儀としては、自身がまずもって調べて、勉強して、それでも分からない場合に質問を発する、自分では調べてこう考えるがこれはいいのかといった質問のスタイルが必要かと思います。
 自分ですべき勉強をまったくせずに、「素朴な質問」を投げかけるのは、その場にそぐわないことがあります。
 質問をする力がないままに素朴な質問をし、回答者の時間を奪うということです。
 「KY」ではありませんが、「場」を読む力は礼儀として大事だとは思います。

 ただ、とはいえどこがそういう「場」なのかを読むことに苦心して、訊きたいことを訊けないというのも自分にとっては時間の無駄です。素朴な質問が許される「場」というものもあります。
 この辺りの見極めが大事です。
 
 これは自分への戒めとして。
 
 やっぱり「力」を付けるには、自分で自分が何を分かっていないのか、自分で「問い」を設定し、書籍等でその「解」、あるいは「解」のヒントになるようなものを探し、自分で苦しむことだと思います。
 それでも、どうしても分からないときに「人に聞く」。一つの礼儀だと。
 
 ただ、実務上、事件処理上は、ついつい友人・知人を頼って、すぐに訊いていますが。訊くことと、自身の調査を並行してやっています。やはりスピードと正確性の重視だから。実務上、解がはっきりしていることを自分で理解、調査できないからとグダグダ悩んでいても仕方ないので。

 でも、人に教えを請うというのではなく、議論をするのであれば、やっぱり共通項としての土台を理解したうえで、それでもそこに異論を唱えるというのか、単に勉強していなくって無知に過ぎないのか、自分で認識することが大事だと最近、考えています。無知の自覚があるなら、謙虚さを失わないようにしないと相手にされなくなってしまう。
 どちらにしても、知ったかぶりは怪我のもと。常に、根拠を遡って考えないと。自戒。

(おわり)
 


2008年10月10日 (金)

連帯保証をするという意思表示と信義則と裁判【松井】


 数年前から、ぼんやりと連帯保証という制度について考えている。
 いったいこの制度はなんなのだろうか、と。
 いったい今の使われ方、裁判所の裁判の判断の仕方はなんなのだろうか、と。


 一見無関係だけどひっかかった文。
 「淵源の如何を問わず、法的義務の創造と履行を規律する基本原則の一つは、信義誠実の原則(principle of good faith)である。信用と信頼は国際協力に固有のものであり、特に多くの分野における協力が不可欠になっている時代においてはそうである。まさに条約法における『合意は守られなければならない(pacta sunt servanda)』というルール自体が信義誠実に基礎をおいているのと同様、一方的宣言によって負うこととなる国際義務の拘束的性質もそれに基礎をおいている。」(中谷和弘、160頁「法学教室 No.331」(有斐閣、2008年))。
 これは、国際司法裁判所(ICJ)の判決文の一文(ICJ Reports 1974, pp268,473.)だそうです。

 法的義務を創造する個人と個人との契約においても、信義誠実の原則が「合意は守られなければならない」というルールの基本だと思います。
 民法では、第1条2項において、「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。」という条項が定められています。
 ここで確かに、信義則という言葉が使われていますが、どういう意味に読めるかというと、権利や義務が発生していることを前提に、その行為あるいは履行において、信義誠実の原則が働くという風に読めます。
 権利義務の発生原因としての信義誠実の原則ではない?分かりません。


 それはさておいて、当事者を拘束するの「合意は守られなければならない」というルールの基礎が信義誠実だとすると、いったん意思表明して合意に達したことは「守れ」と命令されるのであるなら、当然、その意思表明の内容はその効果を理解してなされたものである必要があるし、効果は理解していたけどその意思の作出過程においてキズ(瑕疵)があるのであれば、その意思には拘束されないという考え方が出てきます。
 これについては、民法は、93条以下で「意思表示」として一定の保護をはかっています。
 そうです。一定の保護であって、絶対的な保護ではありません。
 なぜか?
 対立利益があるからです。
 意思表示をした人の意思表示になんら問題はない外形的に判断し、信頼して取引関係に入った、相手方の利益です。
 意思なんて内心です。見えません。なので、外形を信頼した相手方を保護すべきという要請が働きます。
 この両者の利害を調整しているのが93条以下の条文です。
 意思表示の相手方の「不測の損害」を防止するといった表現が利用されたりします。


 一方。
 当事者間で権利義務に関する紛争が発生した場合、解決のため、裁判制度が利用されます。
 シロクロ付けるというものです。
 ここでは、民事訴訟法という法律が、裁判の「手続」について定めます。
 そもそも意思表示があったのか、なかったのか。
 裁判官はいかなる場合に、その問題となっている事実があったと認定できるのか。
 「被告の方が悪人顔だし、法廷での供述もごにょごにょとしてうさんくさいので原告の言い分を事実と認めました。」
 なんてことを裁判官がやっていたら、誰も裁判所の判断なんて信用しません。
 権威失墜。
 事実の「立証」というものが求められます。
 「立証」できなかった事実は、残念ながら、真実としてはこの世に存在したとしても、裁判手続きの中では存在しないものとして扱われます。そのことによって不利益を負うものが負担する責任。それが「立証責任。」
 立証できなかったら、負けです。
 
 立証は何を持ってするのか。
 そうです。「証拠」です。
 言った、言わないが争いとなっているときに、一方の言い分が信用性が高い、証拠価値が高いと判断するとしてもその根拠はなんでしょうか。
 お互い、口だけの場合、それはいわざ引き分け、つまりは証拠はないに等しいものとして、事実はなかったものとされてしまいがちです。もちろん事案によっては、当事者の供述あるいは第三者の証言だけで事実認定されることもあるでしょうが。
 そこで、ものを言うのが、物証です。書類です。文書です。
 なぜ一般的に証拠としての価値が、人よりも物の方が高いのか。
 変容せずに、その時点のそのものとして固定されているからです。
 逆に言えば、「人」は、つまりのその「記憶」に価値がある、しかし人間の記憶なんてむちゃくちゃいい加減です。こんなに嬉しい出来事、一生に一度のこと、二度と忘れることはないと思っていたことすら、2年、3年も経てば、びっくりするくらいに忘れています。忘れているだけならまだしも、偽の記憶を自ら作り出し、心底、それが事実であったと信じていることすらあります。
 人間の記憶はいい加減。
 だから。
 証拠としての価値は、人よりも物にあるとされています。


 では、物の価値をどのように評価するのか。
 民事訴訟法は定めています。

 228条1項 文書は、その成立が真正であることを証明しなければならない。
     4項 私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。
 
 まず、文書の証拠価値を認める前提として、その文書が名義人によって作成されたものであることを証明する必要があるとされていますでもその証明は、その文書に「本人」の「署名」又は「押印」があれば、真正に成立したものと「推定」されます。
 「推定」とは、「みなす」とは異なり、覆すことも認められます。でもその責任は覆そうとする方が負いますよという定め方です。
 つまり、例えば、貸金返還の請求を行う原告は、「消費貸借契約書」という文書を証拠として提出します。
 そこには、借主として被告の名が署名され、押印されています。金1000万円を借りました。返済期日は平成20年9月30日です。利息は5%です、といった具合です。
 これを証拠として提出する意味は何か。
 もちろん請求を理由あるものとして認めてもらうためのものです。
 つまり、貸した金を返せというためには、当事者間においてまずもって金銭授受、さらには使っていいよ、でも一定のときに返してねという約束があったのか否かということが問題になります(ちなみに、こういった事柄を要件事実といいます。)。
 で、争う被告に対し、原告は、この契約書を証拠として提出して、被告は、平成20年9月30日に1000万円を返すという意思表示をしていました、原告との間で約束していました、というわけです。
 
 ただ、これに対して、被告は、いやいやそんな契約書にサインをした覚えはない、筆跡も違う、印鑑もそんな印影のものはもっていないといって争います。これを文書の「成立が真正であること」を争うといいます。
 それに対して、原告は、何をいっている、よく見てごらん、これはあなたの筆跡であり、あなたが「署名」したものでしょ、とやり、被告がそれをしぶしぶ認めたりすると、「私文書は」「真正に成立したものと推定」されます。
 まだ推定なのは、確かに、私が署名したものだとしても、金銭消費貸借契約書とは知らなかった、私が署名したときにはそんな文言はななかったといって、その証拠として提出された文書そのもの成立を争いうる余地があることもあるからです。ここでいきなり「みなす」とはしていないのはそういう趣旨だと。
 

 と。
 民事訴訟法でも明記されているのはここまでのはずです。
 
 じゃあ、次に裁判官はどう考えるか。
 文書全体をみても、後から書き足したような痕跡は認められない。
 最初から「金銭消費貸借契約書」という大きなタイトルが一枚目にあったのだろう、しかも被告が署名している欄には、肩書きとして「借主」としっかりと大きく明記されている。
 そこに被告は、自ら署名をしている。
 ということは、この文書の内容に目をとおして、理解して、署名したということだろう。
 それ以外の可能性を考えることは困難である。
 だったら、当時、「借りたものを返す」という被告の意思表示はあったということだろう。
 なぜなら、被告はこの「金銭消費貸借書」に署名し、この文書の内容を理解して原告に手渡しているだから。

 原告の主張に理由あり。
 被告は、原告に対し、金1000万円を払いなさい、という判決が出ます。


 では。
 これが、連帯保証契約の場合はどうだろう。
 またいわゆる被担保債権が、分かりやすい金銭消費貸借の場合と、複雑な精算責任のような場合ではどうだろう。
 
 主債務者に頼まれて、「連帯保証契約書」というものの「連帯保証人欄」に署名押印してしまうような人が、本当に、自己が負担する法的義務の内容を分かっているのだろうか。効果を受入れているのだろうか。
 被担保債権の発生原因が例えば、それ自体からよく分かりにくい複雑な契約の場合、どうなのだろう。自分がいったい、いつ、どんなときに、どれほどの債務を負担するということを理解して、受入れているのだろうか。
 
 信義誠実の原則のもと、「契約は守られなければならない」として法的な拘束を受けるに値する、意思表示を行ったと評価できるのだろうか。
 「連帯保証契約書」という書類に署名押印しただけで。
 
 思うに、この場合、意思表示の内容、その存在の探求は、金銭を借りたにすぎない人の場合とは異なってしかるべきじゃないだろうかという気がします。
 刑法における犯罪の成立要件、故意についても、未必の故意といった類型があります。故意はあるかないかといわれればあるけど、でも中身は薄いといったイメージです。
 
 意思表示においてもそうであるべきではないかと。
 特に、連帯保証債務については。だって、連帯保証契約書に署名押印する「連帯保証人」の私が知る多くの人々は、本当のその意味、法律効果を理解していないことが多いから。
 でも、裁判で争っても、契約書に署名をしていたら、裁判での勝ち目はかなり低くくなります。というか、実務上は、よっぽどの事情がない限り、勝つことはないかと思います。
 だって。
 裁判所では、裁判官が言います。裁判官の心の声(想像)。
 「この書面を見て、あなた、自分で署名押印したんでしょ。『連帯保証人になってくれ』と言われて署名したんでしょ。意味を分かっていなかったなんて、あなた未成年者なの?いい年した大人でしょ。」


 これは一方で契約の相手方の信頼を保護したものといえるかと思います。契約書に署名までもらいながら、あとから否定されるなら何を証拠としてとっておいたらいいのかとまどいます。
 不測の損害の防止です。

 ただ。
 どうなんでしょう。
 私が知る、問題となっているような事例の場合、相手方を保護する要請がそれほど働くものなのか。そもそも、上記のように、債権者の方が連帯保証人と事前によく協議して説明して、署名押印をもらっていれば普通は、連帯保証人も納得がいって、それほどもめないはずです。
 しかし、債権者は、要は連帯保証人候補者に対し、リスクの説明をリアルにすればするほど、連帯保証人になる人はいなくなります。誰だってそんなのは嫌です。なぜ他人の不手際の後始末をしなきゃならないのか。保証料をもらっていれば別ですけど。普通の個人は、経済合理性は何一つないけど、家族が金を借りるから、あるいは家族に求められるから、連帯保証契約書に署名押印するのです。なぜか。人間関係を形に取られているわけです。
 そこで主債務者の人も言います、書類に署名をもらうとき。「大丈夫。絶対に迷惑はかけないから。」
 むなしい言葉です。
 
 債権者は、主債務者が払ってくれなくなったときのために、別のポケットに手をつっこんで金を回収しようと連帯保証人をとるのです。
 債権者は、連帯保証人を連れてこないと、金は貸せないと主債務者に言います。
 そして、連帯保証人になってくれと言われた親族は、最悪、主債務者がもってきた書類に署名、押印するのです。
 債権者は、これを受け取って終わり。
 連帯保証人に、そのリスク等の詳しい説明をしません。

 でも、それでいいのか。
 債権者は、通常、強い立場です。署名しないなら、金を貸さない、業務の提供をしない等など。
 一方、連帯保証人は、特に、債務者の業務と何ら関係のない、普通に別の仕事をして普通に日常生活を送っている普通の人であることが多いです。いわゆる消費者です。言われて、うんうんと署名押印していることが多いです。
 
 消費者契約法は次のように定めています。
 1条 この法律は、消費者と事業者との間の情報の質及び量並びに交渉力の格差にかんがみ、事業者の一定の行為により消費者が誤認し、又は困惑した場合について・・・」
 
 そうです。消費者と事業者との間には、「情報の質及び量並びに交渉力の格差」があることが法定されています。
 
 連帯保証契約の効果を知らなかった被告、契約書をよく読まなかった被告、書類に署名した被告が、一方的に悪くて、この消費者との対比で、業者の債権者の方を不測の損害から守るべきだと言えるのでしょうか。
 むしろ、このような契約の場合、医師の説明義務などと同様、債権者は、連帯保証人になろうとする者に対して、それが効果を理解しての真意に基づくものといえるのか否か、契約締結に際して、情報提供義務があるのではないかとすら考えます。
 
 契約書に署名押印しているから、連帯保証責任ありとする裁判実務については、どうしても違和感を拭いきれません。
 実態にあっていない。
 
 それをどう裁判官に理解してもらうのか。
 それが、訴訟代理人の腕の見せ所なんでしょう。
 
 
 うーん。文書の成立の真正を認めるのはともかく、その文書の中身の意思表示をしたとするところに飛躍があるのか。
 利益衡量として、相手方の保護の必要性は低いということ、不測の損害を負うわけではないことをいいつつ、理屈としては、証拠の証拠力の問題か。となると、他の周辺事実をどう立証するのか。証拠力を低減させる事実とその証拠。
 
 最高裁、規範を定立すべきときじゃないかと思うけど。立法で確かに一部、規制されたけど。
 いいんだろうか、連帯保証債務の発生原因のところを野放しにしていて。
 うーん。

(おわり)
 
 
  
 
 
 

 

2008年10月 7日 (火)

加勢大周さん、覚せい剤【松井】

1038721712_514c822e29

 加勢大周さんが覚せい剤や大麻の所持で逮捕された。尿から、覚せい剤反応も出たとか。
 自分でも意外なほど、ちょっとショックを受けています。
 田代まさしさんや、中島らもさん、光ゲンジの赤坂さんが逮捕されたときは特にそれほど衝撃は受けなかったけど、あの爽やかさんで売り出していた加勢大周さんと私の知る「覚せい剤」はあまりに繋がらなさすぎる。
 しかも加勢大周さん、日本のテレビドラマに復帰しだしてこれからという時だったのではないのか。
 大学時代、友人が加勢大周さんのファンだったこともあり、自身はそれほど注目していたわけではないけど、なんとなく気にはなっていた。阿部寛さんのように化けたらいいのだがと思っていた(わたし、何者でしょうか。)。


 「覚せい剤」
 弁護士は、たぶんほとんどの弁護士は1年目から、国選弁護人活動をします。
 刑事事件です。
 2年ほど前、国選弁護人登録を抹消しましたが、それまでの6、7年ほどは、年間数件の国選弁護人活動、さらにはその前の段階の捜査段階で、当番弁護活動、捜査弁護活動、少年事件の付添人活動などをしていました。
 この間、担当した事件名でもっとも多かったのは、数えてはいませんが、たぶん覚せい剤事件です。
  
 何度も、逮捕され、有罪判決を受け、服役をしても、出所してから覚せい剤の使用を止められず、またそんな人に限って職務質問で所持のところを現行犯逮捕され、そしてまた服役する。
 そうしてどんどん年を取っていく。
 出所してから、働くところも限られてしまい、そしてまた時間があまるとクスリに手を出してしまう。
 悪循環です。

 そういう被告人の弁護活動を何回かしました。
 
 あの人に連絡して欲しい、この人なら情状弁護の証人に立ってくれると言われ、手紙をだし、電話をしても、相手からはもう連絡しないで欲しいと言われたり。兄弟などはなおさらの場合もあります。どれだけ迷惑をかけられたことかとこちらが怒られたり。
 家族や親身になってくれる人も、最初の法廷では心底、その人のことを思い、証言してくれます、たいていは。でも、2度目、3度目となると、もう関わりたくないという気持ちになるのでしょう。
 「希望」がなくなっていくのだと思います。
 本人だけでなく、周りのものも。
 悪循環です。


 再犯率というものがあります。
 この事件で、再犯率を考えたら、また刑事法廷に戻ってくるかもしれない。
 でも再犯率は100%ではない。最初の過ちだけで二度と戻ってこない人もいる。
 今回、3回目だけど、もしかしたらこんどこそもうこれで最後かもしれない。
 最後にしなければいけない。
 本人が有罪を認め、証拠上も疑問の余地がないときの情状弁護活動は、いつもそんな気持ちで被告人と面会し、法廷で弁論していました。
 弁護人が希望を失っていては、いくら情状弁護をしても全く迫力も何もありません。

 これが最後になるはず。
 これを最後にして欲しい。
 刑事事件の法廷に関わる法曹、弁護人はもちろん、裁判官、検察官ですら、たぶん皆、同じ気持ちだと思います。

 
 長い人生、1度、あるいは何度しくじろうとも、それで人生が終わりになるわけではもちろんありません。死刑を執行されない限りは。
 そうであるなら、死ぬほんの一瞬前、1秒前であっても、しくじったとしても、自分の人生を自分でやり直すことは可能ではないかと思います。自分の気持ち一つです。希望を抱くか否か。罪を犯し、自由を失い、罰を受けたとしても、希望を持つなということは罰のうちには含まれません。

 先日見た映画「嫌われ松子の一生」で、松子は、出所してから投げやりな生き方をしますが、そんな松子の姿を見た服役時の友人から、うちにおいでよ、うちで美容師として働きなよと名刺を渡されます。
 いったんは、くちゃくちゃにして捨て去ったその名刺を松子は、夜中、捨てた河原の茂みから拾いだしに行きます。
 そして、その名刺を握りしめます。
 「わたし、まだやれる」と呟きます。
 松子、53歳。亡くなる数分前の出来事です。
 

 加勢大周さん。まだ38歳。
 まだまだ「やれる」と思います。
 槇原敬之さんのように、復活を祈っています。
 
 槇原敬之さんが謹慎生活を送っていたとき、別に親しかったわけでもない矢野顕子さんから手紙を受け取った、また音楽を始めるにあたってその手紙が励みになったといったことをどこかで語っていたように思います。
 加勢さんにもそのような人が現れることを祈って。

(おわり)
 
1043376360_dcabd81036


2008年10月 2日 (木)

映画と本と【松井】

1072132924_f0d5daa6ac
↑ 知っている人は知っている、NHK放送のアニメ「ぜんまいざむらい」です。


 娯楽について書いてみたいと思います。

 今のところに引っ越ししてから開けていなかった段ボール箱を開ける機会がありました。
 中からザックザックと買った記憶すらなかったDVDがたくさん出てきました。
 買ったことを忘れていて、つい最近、新しく買いそうになっていたものもあります。

  ケン・ラッセル監督の「白蛇伝説」
  この前亡くなったアンソニー・ミンゲラ監督の「イングリッシュ・ペイシェント」
  フランス人の女優ジュリエット・ビノシュの「ダメージ」
  同じくビノシュとダニエル・デイ・ルイスが共演した「存在の耐えられない軽さ」
  ドイツの映画「バンディッツ」
  同じくドイツ語の映画で超有名「ベルリン 天使の詩」
  さらには、「プライベート・ベンジャミン」に
  デイビッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」、
  そして日本では「アリー・マイ・ラブ」というタイトルで放映され一世を風靡し、
  最近その出演者の1人がカリフォルニアで同性婚を果たしたという「アリー・マクヴィール2」の6巻セット。
  そして、アイルランド出身の歌手シンニード・オコナーのライブのビデオカセットも1本。
 
 わかる人はこれで私の趣向が分かるかと。


 三重県四日市市で暮らしていた時は、映画館の数も限られていたことから2本立てが当たり前でした。
 覚えているのは、ケビン・ベーコンの「フット・ルース」とマット・ディロンの「ランブル・フィッシュ」が2本立てだったこと。

 1989年、大阪に出てきて驚いたのは、映画の2本立てなんてほとんどないこと。1本上映が当たり前。
 それでも映画館が多かったので、大阪、京都といろいろ見に行きました。

 1999年、働き出して以降は、なかなか映画館に足を運ぶ時間もなく、DVDを買ってみることの方が多いです。
 それでも見る映画の本数は少ないです。月1本、見るか見ないか。
 ツタヤ・ディスカスの会員になりました。モトをとれてません。
 ちなみに最近見たのは、中谷美紀主演の「嫌われ松子の一生」です。自分も皆紙一重という緊張感を感じながら見たので息が詰まりそうでした。
 大橋から借りた「非情城市」も興味深く見ました。歴史というか、過去の事実を知らないのはやはり罪だなと思いました、自分自身。
 それと段ボール箱から出てきた「マルホランド・ドライブ」。デビッド・リンチ監督といえば私にとっては「ツイン・ピークス」なのですが、「ツイン・ピークス」を彷彿とさせる作りでした。で、どうなの?という粗筋はさっぱりわからず、ついついネットで語られているHPを探し、そういう話だったのかと納得しました。


 一方、本はというと、働き出してからは気が狂ったように買っています。そうです。「買っている」のであって、「読んでいる」とは限りません。
 アマゾンを利用し始めて以降はクリック一発で、月5万円以上は投じています。
 もちろん仕事の本も買っています。この仕事用の本が1冊3000円から5000円と高いというのもあるのですが、それ以外でも、文庫本に専門外の単行本も買っています。
 なぜか。
 おそらく買うことでストレス発散になっているのだと思います。
 
 週に一度くらいのペースで、町中の本屋にも足を運んでいます。
 至福の一時です。

 最近読んだ本はというと、西加奈子さんの小説「通天閣」。同じ関西大学法学部出身というので、どんな小説だろうかと読んでみました。中盤からようやくドライブが効いて、最後のシーンではちょっと泣きそうになりました。ええ話です。

 米原万里さんのエッセイ「言葉を育てる 米原万里対談集」は今、通勤電車の中で読んでいます。頭が賢くなりそうな気になります。2006年、50代でお亡くなりになってしまった米原さん。もっと多くの本を遺して欲しかったと悔やまれます。

 そして最近、心躍る感じを覚えた本は、「ブランジュリタケウチのどこにもないパンの考え方」という本です。
 「パンの考え方」とあるように、「パンの作り方」の本ではありません。
 タケウチさんのつくる「どこにもないパン」のタケウチさんの「考え方」の本です。
 これがもう面白い。
 遊び心満載です。
 真四角の石けんを見て、真四角のパンが作れないだろうかと考えたり、和菓子に負けないパンを作れないか、苦いパンはどうやったら作れるのかと考え続け、飲んだビールが苦かったことからビールでパンを作ってみようとか。
 読んでいて楽しいです。

 こういう遊び心が大好きです。
 気持ちが踊り出し、自分でも自分の目が輝き出すのが分かります。

 昔、友人に誘われて行ったフランス料理店、そこの料理が非常に遊び心に溢れていて感動したことがあります。ホテルの中の店でありながら、シェフが見つけてきたというアヒルの器に盛りつけられた料理、スパゲッティの中でフォークが踊っている盛りつけ。
 シェフはまだまだ若い方で、若さを感じる「おちゃめ」さがありました。リッツ・カールトン大阪の「ラ・ベ」。
 
 ブランジュリタケウチの本を読み、そのときの料理を思い出しました。
 なれるなら今からでも料理人になりたい、と一瞬、妄想が走りました。


 「遊び心」溢れる弁護士に代理人活動。
 あり得へん!?
 真剣勝負だから?!
 じゃあ、タケウチさんやデビッド・セニアさんは真剣勝負ではないのか?!
 そんなことはない。
 仕事は、全て、結果が全て。
 その結果に至る過程で、知恵をひねって新しいものを作り出す、よりよい結果をもたらすための闘争心、それが「遊び心」の定義だとしたら、
 「遊び心」溢れる弁護士に代理人活動もあり得ないものではない。
 ただ、結果が全て。
 それを忘れないように。

 そういう意味では、結果さえ出せば、その過程はつまらないことでもいいのか。
 それではきっと、目が死んだ弁護士になってしまう。修習中、法廷で見かけた目が死んでいる代理人。仕事は面白くないのだろうかという疑問がわきおこるほどの覇気のなさ。
 生気のない、目が死んだ弁護士と言われるようになったら、別の仕事を探します。もちろん何が出来るのかは分からないけど、それでも生きていかねばならないので。

 アンパンマンの歌〜 
  何のために生まれて 何をして生きるのか
  答えられないなんて そんなのはイヤだ

 何をして生きようか。
 客観的には転落人生で、それでも最後、希望の名刺を手に握ったまま殺されてしまう松子を描いた「嫌われ松子の一生」と、簡単に人が殺され、死んでいった現実を描いた「非情城市」を見た影響が大きい今回の文。「マルホランド・ドライブ」も、希望と失望の現実、そして愛と憎しみと妄想を描いた映画。
 考えてみれば、最近見た3つとも、ある意味、悲しい映画です。みんな死んでいきます。
 にも関わらず本では、夢と希望に溢れた「ブランジュリタケウチ」の本に「通天閣」。


 がんばって仕事します。
 先日、大先輩のお二人の弁護士から、そのお仕事ぶりをお聞きする機会がありました。
 もう10年になりますが、わたくし、まだまだです。なまっちょろいです。
 この10年、いったい何をやっていたんだと豆腐の角に頭をぶつけて死にたくなります。

 映画も本も大事だけど、やっぱり何よりも、人に会って話をすること、話を聞くことが大事です。
 閉じこもらないように気をつけます。
 顔を見て、言葉を交わそう。

 精進。

(おわり)
↓ 誰も知らないであろう、四日市市の諏訪神社の鳥居。
1124350196_9a40a7d549


« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »