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2008年4月

2008年4月25日 (金)

準備書面作成手順【松井」】

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あてどなく砂漠をさまようことは出来ません。2002年12月、サハラ砂漠にて。


 出典をメモしていなかったのが痛恨のミスですが、おそらく以前たしか判例タイムズでの掲載記事にあったのをメモしていたものです。

準備書面作成手順 事実と評価の区別。 証拠。

① 当事者の関係を図にする(概念図作成)。
② 時間的に生じた事実をリストアップする(時系列表)。
  上記の事実抽出にあたり当事者間に争いのあるものと争いのないものを明確にする。
③ 大ブロックを作る。

 以上の事実から攻撃防御方法の流れを作成し、ブロックごとの要件を記入する。

④ ブロックごとの要件のうち要件事実が存在するものと、その認否を記入する。
⑤ 要件事実が存在しないものは、間接事実、再間接事実を拾い出す。
⑥ ④⑤の事実の証拠を検討する。
⑦ 各ブロックの要件事実、間接事実に対する不利な事実を抽出し、その証拠の存在を確かめる。
⑧ 自己に有利な事実、証拠にしたがった事実の流れをストーリーとして仮定する。
⑨ 上記の事実の流れを阻害する事実、証拠に対する反論を行う。
⑩ 自己に有利にも不利にも評価される間接事実の評価を行う。


 「大ブロック」「ブロック」というのは、司法試験合格後、2年間の司法修習においてみっちりとしこまれた要件事実論というものに関する用語です。
 弁護士が裁判所に提出する「準備書面」の作成にあたっては、上記の事柄を意識して書面作成することになります。
 これが弁護士が書く書面と、弁護士でないものが書く書面の「違い」です。


 自分用に、初心忘れるべからず、基本を大切にという趣旨でここにメモ。

(おわり)

2008年4月24日 (木)

取締役の責任~有限責任論の根拠は?~【松井】

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↑ ダブル・フレンチというらしいです。PCのキーボードを叩くので爪を伸ばせません。塗ってもいませんが。


 判決書の全文を読まないと詳細は判りませんが、昨日4月23日付けの報道によれば、以前、このブログ記事でも触れた蛇の目ミシン株主訴訟の差戻審の判決が昨日、東京高等裁判所であったようです。
 主文 当時の取締役ら5名に対し583億円の支払いを命じたとのこと。

 なお、これは株主代表訴訟なので支払先はもちろん会社に対してです。

 以前のブログ記事
 コンプライアンスって何?~こうあるべきだということ~【松井】 


 新聞の記事なのでどこまで信用できるかという問題はありますが、紹介されている早稲田大学法学部の上村達男教授のコメントが気になりました。
 「『株主は有限責任なのに、取締役は無限責任という現行法を見直すべきだ。』と指摘している。」とのこと。

 !?

 株主は共益権と自益権しかないよ、つまり基本は議決権と配当を受ける権利しかないよ。投下資本を回収しようと思ったら売るしかないよ。
 一方、当時の取締役経営者は、他人の財産を預かり、幅広い裁量のもと経営を決定する権限があるよ、それに対して相応の報酬も会社からもらっているよ。
 なのに、なぜ株主と取締役を同列に論じるの?!

 他人の財産を委任によって預かり、損害賠償責任が発生する大前提として、要求される注意義務違反があり、それによって会社に損害を被らせたらその損害額について因果関係がある限り、賠償責任が生じるというのが当たり前じゃないの!?
 583億円の賠償命令も、5人でそれだけの損害を会社に与えることを注意義務に反してやったからの過失責任でしょ。
 決して、失敗したから責任を負えという結果責任を問うているものではない。
 なのになぜ、取締役だけ、個人的に支払不可能な金額の損害を会社に負わせた場合は責任を制限すべきという議論が出てくるのか。全く理解できません。



 この理屈でいうなら、過失責任の結果、第三者に損害を負わせても、その人にとって支払不能であるなら、責任を制限すべきということです。
 例えば、過失によって4人の人を死亡させる事故を引き起こし、損害額が3億円になった、しかし責任を負う加害者は50歳で年収500万円、大学受験をひかえた子どもが3人といった場合だったら、やっぱり損害賠償額を限定すべきということになるのでしょうか。
 
 確かに、責任について制限した方がいいのではないかという発想も気持ちとしては分からないでもありません。
 ただ、それでは発生した損害の落とし前をどこでどうつけるのかという点のフォローも必要であり、何ら過失のない被害者が泣けということなのでしょうか。
 バランス的には、保険制度を充実させるというのが一番の現実的なような気がします。

 同期のKYさんへ。損害賠償論の研究ということであればこの有限責任論も面白いのではないでしょうか。どうでしょ。

(おわり)

2008年4月23日 (水)

最悪の事態に備えよ~控訴について~【松井】

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美味しいご飯を食べて、がんばろう。


 もう10年前になる司法修習中、研修所の民事弁護教官の弁護士が仰っていました。訴訟代理人をして判決期日を迎えるときは、最悪の事態を想定し「控訴状」を用意している、と。



 弁護士としては、仕事柄、最悪の事態についても常に想定し、シミュレーションを行います。
 そしてこの場合はこう、この場合はこうといった考えつく限りの選択肢を取り上げ、その行き着く先を想定し、どのような対応ができるかを考え、その上で選択肢の中からベストと思えるものを選択肢として提案します。
 ただ、それでも最後に決断をするのは依頼者です。依頼者の意思に反する代理人活動はできません。
 結果について責任を負えないと判断せざるを得ないときは、代理人を辞任します。
 


 この事務所のブログに辿りつかれる方の検索ワードでは、なぜか「控訴 期間制限」といったワードが継続的に上位に現れています。
 そこで、控訴審について改めて簡単に触れておきたいと思います。


 去年、控訴審について受けた研修などについてはこちら。
 
 裁判官とのコミュニケーション
 
 勝って兜の緒を締めよ
 
 
 控訴状の提出期間は、民事訴訟法285条に規定されています。「判決書又は第二百五十四条第二項の調書の送達を受けた日から二週間の不変期間内に提起しなければならない。」
 そうです。「不変期間」です。これを徒過したら、過ぎたら、控訴できません。一審判決は確定します。もうその事柄については二度と争えません。


 控訴状を出したら、民事訴訟規則182条です。
 「控訴状に第一審判決の取消し又は変更を求める事由の具体的な記載がないときは、控訴人は、控訴の提起後五十日以内に、これらを記載した書面を控訴裁判所に提出しなければならない。」

 上記のブログ記事の中で書いているように、高等裁判所の裁判官が苦情を述べているのは、この書面がきちんと50日以内で提出されている割合が低いということです。
 つまり、この書面については期間を徒過しても明確な不利益は特に規定がないということです。ただ、裁判官の座談会等によればやはり心証はよくない模様。
 また、書けばいい、出せばいいというのではなく、読みやすい「簡にして要を得た書面」を作成提出しなければなりません。



 去年、法曹会から、司法研修所編として「民事訴訟における事実認定」という本が出版されました。
 これは最近の愛読書です。
 巻末、資料として面白いものが付いています。
 「事実認定を語る~高裁裁判官インタビュー集」です。
 高等裁判所の裁判官14名が、A裁判官からN裁判官として、それぞれ一審判決のあり方や、高裁判事としての心構えなどについて語っています。
 
 まだまだ裁判所は信頼できると思える、素晴らしい言葉が語られています。
 興味のある方はぜひご一読を。

 以下、抜粋。

 「書証の成立だけから結論を導かないこと」(316頁)

 「書証がないと、それだけで『書証がない以上、認定できない』という言い方がされることがありますが、一概にそうとは言えません。」(317頁)

 「さらに、書証を過度に重視してしまうと事実認定を誤る場合があるので、注意が必要です。」(322頁)

 「適正な事実認定ができるためには、人間の行動に対する洞察力、人間に対する共感力を育てることが大切だと思います。つまり、その場に置かれた人間が普通どのように思って行動するかという視点ですね。もし行動として異例であるならば、そうした行動をとる合理的な理由があるのかどうかを考えてみることになります。こうした洞察力は、日頃から新聞等を読み、他人の見方を知るとともに、自分でも考えることにより養われます。知識は何でも吸収し、好奇心を持つべきでしょう。」(323頁)

 「若い裁判官は、『処分証書は特段の事情のない限り記載内容の通りの事実が認定される』と考える傾向にあるように思われます。そもそも、契約等の法律行為は、取引行為であり、目的のある行為ですから、その背後には動機があるはずです。したがって、法律行為は、効果意思だけではなく、合理的な動機、目的があって初めて認定できるものなのです。しかし、契約書の記載内容からは、これらの動機、目的や背景事情は見えてきません。
 したがって、契約書の成立のみならなず、特段の事情についても重要な争点ととらえ、これらの事情の探求を心がけるべきです。そもそも事件になるのは、特段事情がある(あるおそれがある)からだといっても過言ではありません。裁判官は、特段の事情の認定にもっと積極的になるべきだと思います。」(325頁)

 「本当の詐欺師の証言は、明確性、一貫性があり、反対尋問や補充尋問をしても内容がぶれないものです。その意味では、出来すぎの証言は要注意です。」(327頁)

 「最近の判決を呼んでいると、事件を解明しようとしていないのではないかと思われるものがあります。当事者や関係者の生の行動や、その行動をとったときの気持ち、心理に迫ろうとしていないもの、どうしてそういう行動をしたのかに思い至っていないものが散見されるのですが、それでは駄目だと思います。私は、事件を解明するようにしたいし、若い人にもそうして欲しいと思っています。確かに、結論をだすだけなら、細部の解明は不要なときもあるでしょう。しかし、当事者、市民は、裁判所が書証だけでおおざっぱな判断をすることを支持していません。当事者は、紛争の実態を知って欲しいとおもっているはずです。」(332頁)

 「事実認定力向上のためのアドバイス」として、「客観的事実との突き合わせが大切です。それをしないと、認定を誤ることがあります。
 また、当事者がなぜそのような行動をしたのかを思い描くこと、当事者双方のそれぞれの立場に立って、行動や心情を考えることが有益です。」(333頁)

 まだまだ以下に続きます。

 「そーだ、そーだ! いいぞ、いいぞ!」という発言ばかりです。

 でも、きっとこの発言で批判の対象となるような判決書を作成された裁判官に限って、このインタビュー集を呼んでも、これが自分のこととは気づかないのでしょう。
 自身も含めて、みなそんなもの。
 だから常に、自戒し、自らを振り返り、自身の活動がどうなのかをチェックし続けなければならない。
 がんばろう。おーっ!!

(おわり)

2008年4月22日 (火)

弁護士の研鑽~チューニング合わせ~【松井】

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 交渉ごと、契約締結、新規事業開始にあたっての法的アドバイスなどを行うにしても、弁護士にまずその分野に関する法的な知識があることが、当然ですが必須です。
 ここでいう専門家としての法的な知識が何を意味するのか。


2 
 法令に関する解釈、裁判例を知っていること、さらにはあるべき姿とは乖離している実態、慣行などを知っていることなどいろいろです。
 つまりは結局、先に対して的確な予測がいかにできるかと言うこと、結果を予測して目的を達成するのに必要な選択肢、方策を示すことであるのは間違いないかと思います。

 このとき、「先」、「結果」というものが何を意味するのか。
 紛争となり、出るところに出たらどういう判断をされるのか。すなわち、裁判で争われたとき、依頼者の言い分がとおるかどうかの見込みを立てるというのが最大のポイント、法律相談を受けた弁護士に求められる能力、提供できるサービスだと思います。



 ということは、裁判実務を経験していないと、結局、相談業務も実際のところままならないのではないかと私は思います。
 法廷にはめったに行かない弁護士というのも確かにいるようです。

 しかし。
 裁判は、裁判所に行って、裁判官と会話してなんぼだと思います。
 裁判官の感覚にチューニングを合わせる。
 これは楽器と同じ。
 文献の世界ばかりにいて法廷から足が遠のいていると、裁判官のものの見方ということについて、ズレが生じてくるかと思います。
 やはり相談業務は、裁判という現場で訴訟代理人を務めているからこそのものだと思います。

 「弁護士」としての研鑽の場は、裁判所にあると思います。
 頑張りたいと思います。
 日々、裁判官の書いた最高裁判例や研究論文、さらには学者の書いた論文に目をとおし、場合によっては外国の法制度を調べるなどして、日々、研鑽に努め続けたいと思います。
 もっと訴訟に強い弁護士として働きたいと思います。
 
 法学の大家、我妻榮先生の言葉。

 「法律学は、
 『実現すべき理想の攻究』を伴はざる限り盲目であり、
 『法律中心の実有的攻究』を伴はざる限り空虚であり、
 『法律的構成』を伴はざる限り無力である」

 いわゆるサムライ業として、弁護士登録1年目から自身の名前を出して今の仕事をしてきました。
 独立して事務所を構えている今、監督する上司や雇い主はいません。
 ともすれば易きに流れがちな状況ともいえます。

 そんな状況だからこそ、初心を忘れず、悔いなく訴訟代理人活動をしていきたいと思います。
 依頼者の利益にならないことはもちろんですが、そうでなくてもやはり訴訟で「負ける」のはイヤです。
 訴訟代理人としても、結果を見誤った負け判決だけはもらいたくありません。
 自身のチューニングの狂いを見せつけられることになるから。
 訴訟代理人として、依頼者と共に悔しい思いをすることだけは味わいたくありません。 そのためにもっともっともっと努力したいと思います。


 先日、勝つべき事件と考えていた事件で一審判決、100%敗訴の判決書をもらいました。
 裁判官の書いた判決書に対し、つっこみどころは多々あるかと思える判決書ではあったのですが、裁判官に文句を言っても始まりません。
 私が担当裁判官にチューニングをあわせきれられなかったのだと思います。
 
 こんな思いは二度としたくはありません。
 悔しいし、何よりも依頼者に申し訳ない。保護されるべき立場であるにもかかわらず、こんな内容の判決書をもらってしまった。
 今まで、自分のチューニングには比較的自信がありました。判決文の構成が、自分が準備書面で書いた筋と同じ構成だったりすると一人ニカッと笑っていました。負けると思ったときは、損害を最小限にするために負けない和解をアドバイスし、さらには勝つべき事件は勝ってきたという思いでした。
 そうしているうちにどこかでチューニング、練習を怠っていたのかも。

 五感、音感を磨き、音合わせをして、次のステージ(控訴審)に挑みます。

(おわり)

2008年4月17日 (木)

「和解」の上手な裁判官【松井】

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 裁判所で裁判が継続していても、途中、大体は尋問手続の前、あるいは尋問手続直後、裁判所から、和解勧試ということで話し合いで解決できないかを検討する和解期日が設けられます。もちろん事案によりますが。


 法廷や従前の弁論準備手続室においては、原告と被告双方が同席して裁判官を交えて話をするのが通常ですが、和解期日では、まずは原告だけが部屋に入り裁判官と話をする、次に交代して、被告だけが裁判官と話をするということがあります。
 片方ずつそれぞれから裁判官が和解にあたっての解決案、その意向を聞き取ります。
 そのうえで、また被告と原告が入れ替わり、裁判官の方から、あちらはああいっていますよ、あなたももっと妥協したらどうですかといったやりとりが行われることになります。

 ただ、ここで「和解をまとめる」のが上手な裁判官とそうでない裁判官ということで、裁判官の技量の差が現れます。
 2年間の司法修習において、大阪地方裁判所の民事の部に4か月身をおいた際の経験、さらには弁護士になってからのこの9年間の経験からは、端で見ていて、「お、この人は和解をまとめる技術があるな。うまいな。」と思わせられる裁判官というのは、双方の話をよく聞く人だということです。

 「プロカウンセラーの聞く技術」(東山紘久、創元社)という本があります。この本も私がときどき読み返す本です。
 人の話を聞く、ということは一つの技術です。
 この点、出来る裁判官というのは聞くのが上手です。
 日産のゴーン社長の記事をあちこちでよく見かけますが、記事曰く、ゴーンさんが最も原点として大事にしていることは、「人の話に耳を傾ける」ということだそうです(といった記事を目にした記憶が印象に残っています。)。
 人は、自分の話を聞いてもらったという実感を得られると、同様にその人の話に耳を傾け始めます。
 裁判の和解手続も、同じだと私は思います。

 つまり、和解の上手でない裁判官というのは、自身の心証を開示するだけで、当事者の話に耳を傾けようとはしない、傾けるふりすらしようとはしないのです。

 和解は、双方の「妥協」によってしか生み出されません。どちらかの言い分を100%きくということもありますが、それは敗訴に等しいものです。双方から妥協を引き出し、合致点を見いだす作業としては、当事者はもちろんそうですが、裁判官も、双方の言い分をまずよく聞くというのが必須だと思います。


 私がまだ弁護士3年目くらいだったころ、私はひどい失言をしたことがありました。
 弁論準備期日の前に提出した、私としては渾身の力作準備書面。この事件の本質、実態は、原告の訴えとは異なり、こういうものなんだ!という書面を被告側として書き上げ提出しました。
 期日当日、裁判所に行くと、明らかに裁判官の態度が異なりました。
 こちらの言い分を認めた形で、双方の代理人弁護士に対し和解を強く勧め始めたのです。
 正直なところ、「勝った」と思いました。
 ただ、そこは裁判官、バランス感覚をもって、こちらに尋ねてきました。この案であれば被告(こちら側)に有利だけど、それでは和解にはならない。和解することについての原告さんの側のメリットも見つけないとね。」と言って、こちらに何らかの妥協を迫ってきたのです。
 そこで私の口をついて出てきた言葉。
 「判決が出ないということが、原告のメリットではないですか。」

 つまり、和解をせずに判決が出るとなると、原告の敗訴判決が出る、和解すれば敗訴判決は出ないでしょ、敗訴判決を回避できることそれが原告のメリットといことです。
 一瞬、その場が凍りつきました。
 しまったと思い、「言い過ぎですかねぇ。はははっ。」と笑ってごまかそうとしましたが、裁判官はさすがに毅然と「そうですね。」と一言でした。
 結果としては、相手の望む事柄をこちらも与えるという形でおさまり、良い和解が出来たのですが、和解が成立するか否かということは、代理人弁護士の力量はもちろんですが、裁判官の力量に負うところも多分にあります。

4 
 上記の裁判官は、和解を成立させるために原告側の言い分も聞き、それを考慮するように被告側に持ちかけました。原告側としては、裁判官にここまで配慮してもらったら、しかも和解を蹴ったら敗訴の可能性が高いという状況で、和解を蹴るということはし難かったかと思います。裁判官からの配慮を感じたからこそ和解に応じたのだろうと思います。 
 和解をまとめるのが上手な裁判官というのは、人間心理に造詣が深いものです。
 結局、人は、脅しでは決して動きません。
 このままでは貴方は負けるよ、といったことで人がおいそれと大幅な妥協をして和解を成立させるということは意外なほどまずありません。(このとき、もちろん代理人としては必死に説得しますが。感情を捨て、経済的合理性で判断することの良さを説きます。)。

 ただ、人間心理としては、そこまで言われるなら、納得でないままに和解をするくらいなら、負けると分かっていても和解を蹴って判決を、ということになり、この点を裁判官は分かっていないのではないかと思うことも、残念ながらないではありません。

 裁判官が一言、当事者の言い分に耳を傾け、相応の理解を示したうえで、心証を開示して和解をすすめたらな、当事者も納得して気持ちよく和解に応じるだろうにということがあると、まったく残念でなりません。

 裁判所修習の際に学んだことは、裁判官が和解として双方から妥協を引き出そうと思ったら、決して、貴方の方に言い分があるなどということは口にせず、それぞれの弱点を指摘するということでした。自分の方が勝つ、と思わせるようなことを言ってしまうと、普通、じゃあ和解するメリットなんてないから、判決で、ということになります。ただ、それはまず当事者の方の言い分によく耳を傾けたうえで、貴方の言い分はこの点よく分かります、ただ、判決となるとこういう弱点がある、そうなると判断は難しい、ここで妥協して和解をするのが貴方にとって一番いいことだと思いますよ、と言った風に切り出すのです。
 裁判官は皆、こういったことまで考え抜いて和解期日に臨んでいると信じています。私は。検証のしようもないから分かりませんけど。


 ただ、こういう「聞く技術」は、裁判員裁判の制度が運営されだしたら、担当裁判官にまず求められるテクニックだとは思います。一方的に喋るだけでは、「裁判官」という権威での脅しだけでは、人は動きません。たぶん、きっと。まずは裁判員になられた人の意見によく耳を傾けないと。
 これは裁判官に限らず、弁護士も同じ。
 まずは相談者、依頼者の方の話に対し、先入観・偏見なく、耳を傾けるように心がけているつもりです。ただ、そのうえで証拠が弱い、あるいは法律上、請求権として成り立つ根拠が見あたらないといった弱点を指摘せざるをえないときは指摘させていただきます。
 そのうえでそこにある問題を解決する最善の策を見つけるべく努力します。
 できません、無理です、NO、といだけなら、弁護士は役立たずだと思いますし。
 依頼者が、一番に望むことは何かを探り、それに向けての方策、次善の策などを検討し、示すことが弁護士の勤めだと思います。
 ただ、そのためにはまずは、決めつけたりせずに依頼者の方の話に耳を傾けることが大事だと思っています。
(おわり)

2008年4月11日 (金)

18 Till I Die ? 【松井】

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 ↑ 馴染めなかった、集団競技。野球・・・。

1 
 先日、同期の女性の友人と話をしていて、子供のときどうだったかという話題となりました。小さい頃から、クラスの隅っこで一人超然と、周囲になじみきれず、でも周りの雰囲気を気にせずいいたいことを言っていた子どもだったかどうかという話で盛り上がりました。家に帰ってから、なんとなく封印していた過去を思い出し。
 また他の弁護士のホームページでの自己紹介で、子供時代のことを気軽に書いていて面白いものを見かけました。
 そんなこともあり、37歳にしてこれまでの半生?を過去をちょっと振り返ってみました。

2 
 保育園児時代 浜田保育園 
  ぐりとぐらを読み、まずい粉ミルクを飲んでいた記憶。
 幼稚園児時代 四日市幼稚園 
  「王様の耳はロバの耳」の演劇発表会で、なぜか王様役。
 小学校低学年時代 四日市西小学校 
 1年生 何をしたのか忘れたけどいきなり廊下で立たされた記憶。
      レゴブロックにより、新しいものを創造するには、既存の
      ものを破壊しないといけないという痛みを学ぶ。
 2年生 節分の日の出来事を作文にというので、猫と過ごした
      ことを書いたところ寂しい印象を与える。
      (家ははんこや営業で、両親共働き、兄は10歳年上で
      このころ高校生)
      忍者の本や、無人島での暮らし方といった本に心奪われ、
      ぼろぼろになるまで「火の起こし方」「飲み水の集め方」
      といった頁を読む。
      石と砂で泥水を濾過するとか、乾いた木と葉で棒を
      回して摩擦熱を起こすとか。
      顕微鏡虫眼鏡で太陽の光を集め、自宅を
      燃やしかける。
 3年生 近所の神社の林の木に、登りにくいからと、家から
      金槌と釘を持ち出し、釘を打ち込む。木登り、木の上が
      好きだった。
      家の屋根裏に上がり、ノコギリで天井の柱の一部を
      切り取り、商店街の中にある家の屋根に出られる
      ようにする。
      友人と、一つのジーンズを何日間はき続けられる
      かを競争し、1か月ちょっとの記録で負ける。
      そろばんが流行、習いにいくが、4級くらいで飽きて
      辞める。
 4年生 雨の日の過ごし方をクラスで議論した際、漫画を持参
      していいか否かが議論となり、漫画賛成論を展開し、
      多数派を確保。
      議論をあおり、勝つ快感を初めて知る。
      確か、このころ、当時大学生だった兄がネパール
      長期旅行から帰国後、赤痢疑惑が持ち上がり、
      商店街の中にある実家にも保険所から8名近い
      白装束の職員が消毒に現れ、近所が騒然となる。
 小学校高学年時代      
 5年生 担任の教師と衝突し、一人学級崩壊状態。
      5月の林間合宿でラジカセを持ち込んだことを怒られ、
      学年全員が運動場に集合した中、一人立たされ
      ネチネチと言われる。
      当時、オールナイトニッポンが流行し、さらには
      名古屋圏ではおなじみの「つぼいのりおのぽっぷん
      10分」を愛聴していた。
      子どもながらに、あまりに理不尽と感じ、以後、なぜか
      徹底抗戦、実力行使。
      教師の指示を基本はすべて無視。授業中は窓の外
      を見続け、宿題は敢えて提出せず。
      ノートには教師を主人公にした主人公の悲惨な物語を
      これみよがしに書き綴り、それを読んだ教師から顔面を
      はり倒されるが、その瞬間、勝利感を感じる。
      友人には好評であり、「田中○○物語」(教師の名前)
      として連載化。
      通知表の性格欄、オールCに近い評価。それを見て、
      また「勝った」と感じる。
      子どもミステリーシリーズにはまる。アガサ・クリスティ
      の「マープルおばさん」の本を図書館から借り、
      家でドキドキしながら暗いところで読む。
      その結果、視力が極端に低下し、眼鏡をかけることに。
 6年生 またしても同じ、担任教師。
      以後、卒業まで、戦いが続く。途中からは冷戦状態。
      卒業文集には、将来なりたいものに「社長」と書いた記憶。
      お金持ちのお嫁さんなどとの記載に対しては、別れた
      らおわりやんと不思議に思う。
      友人の男の子とケンカ。わざと傷つける言葉を投げ
      つける。切れた友人は、泣き叫びながら学校中を追い
      かけてくる。最後は壁に追いつめられ、相手は泣き
      叫びながら殴りかかってくるも、周りを他の児童が
      とりかこみ私も逃げ場がなく、そこにようやく現れた
      校長先生が間に入り止まる。

 中学生時代 四日市市立中部中学校 
 1年生 剣道部に入る。自分一人の力を試せるからと。つまり、
      自分以外の人の影響は受けないということ。
      道着に着替えをしていると、隣の家庭部の不良が
      ノコギリを棚越しに放り投げてきたのでさすがビビる。
      不良は予想の範囲を超えることをするから不良と
      呼ばれると以後、肝に銘じることに。
      サム・ライミ監督のデビュー映画「死霊のはらわた」を
      筆頭にホラー映画ブームが起こる。友人と前売り券を
      買って、片っ端から見ていく。
 2年生 毎週金曜日の夜は、ブランデーを飲んで朝4時まで
      MTVを見るのが楽しみに。
      さらにときどきずる休みして布団の中で推理小説を
      読みふける。ちょっと不登校気味か。
      この当時、バンヘイレンのジャンプや、マドンナの
      ライクアバージン、マイケルジャクソンのスリラーが流行る。
      個人的には、ドイツのバンド、ネーナにはまる。
      塾の夏期講義、「室生犀星」の下の名の読み方が
      分からず、横にいた勉強のできる友人に訊くも教えてくれ
      ようとはせず、世知辛いもんだと悲しむ。
 3年生 当時のいわゆる「外タレ」コンサートに名古屋まで足を
      運ぶようになる。
      そのため、学校も休むが、近所の貸しレコード屋でたまに
      顔を合わせる担任教師は黙認。

高校時代 三重県立四日市高等学校 
 1年 今度はチームプレーに挑戦とソフトボール部に入るが、攻
    撃は自分の番がまわらないと退屈、守備も自分のところに
    ボールがこないと退屈、剣道に比べたら待ち時間、試合
    時間が何かと長いと感じ、1年であえなく退部。一応、
    サードを守っていた。
    このころ、集団で一緒に泣いたり、笑ったりということは
    苦手かもしれないという自覚、つまり協調性に欠けるとい
    うことに自覚が芽生える。
 2年 友人と各種マンガ本の貸し借りにふける。「ぼのぼの」
     「バナナフィッシュ」など。
 3年 兄が京都にある大学(大橋の京都大学ではありません!)
    に行っていたこともあり、自分も関西方面の大学にと漠然
    と考え、なんとなく法学部を受験。1月、自衛隊員合祀
    訴訟を夕刊で知り、間違ってるんちゃうん最高裁と疑問を
    抱く。
    浪人をしてまで入りたいと熱望する大学もなく。確か、
    最後の共通一次試験も受験。
    数学で大ミスを犯す。国語、世界史、英語だけで合格
    させてくれた大学にそのまま入学。

大学時代 関西大学法学部入学 18歳。
    大阪に来て、まず驚いたこと。
    映画館の映画って、2本立てじゃないんだ!
    (田舎は映画館が少ないので、映画といえば当然、
    2本立てだった)


 ここまでを振り返ると、何か一つのことをやりとおしたというものがあまりないことが明確になる。ふらふらした、ごく普通の18歳まででした。
 「18 till I die」 というブライアン・アダムスの歌があります。
 うーん。18歳か。精神的に18歳。今の性格の礎となる転機はというと、やはり小学校5年生の対担任教師との一人学級崩壊の2年間のバトルのように思われます。それまではもっと素直だったように思います。ちなみにうちの母親は、教師とのバトルを知っていましたが、私には何を言っても無駄と放置していた様子。

 18 till I die より、やっぱり今が一番いいです。18歳まではそれなりに複雑で、もがいていたような気がします。自分の心情としては。誰もが悩み多き10代。
 先日、NHKのドキュメンタリー番組で、大阪府貝塚市の不登校の中学生の子らの番組をたまたま少し観て、はたと自分の子ども時代を振り返ったというのもあります。
 「子ども達は悪くない」というタイトルの本があったかと思いますが、10代の子ども自身が何か「悪い」と全ての責任を負わされる状況にはないかと思います。
 周りの大人たちしだいの面が多分に強いのではないかと。
 誰もが完璧に幸せな子ども時代を送れるという保証なんてものはなにもなく、だからこそ、自分で自分の状況・現状をどう受けとめていくのか、それをもがき苦しむのが10代の試練かなという気もします。
 10代でも分かることは、自分の状況を他人のせいにはしないということではないかと。人のせいにしたらそこで自分の成長は終わります、きっと。10代の子にこんなこと言っても、何をエラソウにと反感を持たれるだけですが。
 先生のせい、母親のせい、友人のせい、なんてことはどうでもよくって、自分が何を出来るのか、何をしたいのか、何をすべきか、どういうふうに生きたいのかということを考えて(要は、前向き)時間を過ごせば、だいたいのことはどうでも良くなります。過去よりも今の方が大事です。
 これはたぶん大人になっても同じで、同僚のせい、先輩のせい、上司が悪いから、隣人が悪いから、夫が悪い、妻が悪い、友人がひどいといった思いから開放されると、楽に前向きになります。腹を立てているだけ、時間の無駄です。終わった過去は変えようがないので、切って捨てていくしかありません。糧とはしつつも。と、考えています。

(おわり)

2008年4月 7日 (月)

そうだったのか、「税理士法」【松井】

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1 
 3月、日本弁護士連合会主催の「租税税訴訟の新たな展開」という研修を受けました。 その際、従前、租税に関して、弁護士はその果たすべき役割を果たしてこなかったのではないかという指摘がありました。
 従前、税務のことは税理士がやるべきことで弁護士が担当すべき事柄ではないといった風潮がなかったのかということでした。
 その際、税理士の役割に関して、税理士法1条の指摘がありました。

 税理士法1条には、「税理士の使命」として次のように記されています。
(税理士の使命)
第一条 税理士は、税務に関する専門家として、独立した公正な立場において、申告納税制度の理念にそつて、納税義務者の信頼にこたえ、租税に関する法令に規定された納税義務の適正な実現を図ることを使命とする。

 一方、弁護士法1条はというと。
(弁護士の使命)
第一条 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。
2 弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない。



 つまり、税理士法の規定する税理士の役割・使命としては、決して「納税者の代理人」ではないということです。
 「独立した公正な立場」で、納税者と税務当局との間に入る、調整役的な面が役割と考えられていた面が多分にあったのではないかという指摘でした。

 ところで、課税については、国家権力として抑制の対象たるべきものとされ、憲法でしっかりと定められています。

 憲法84条
 あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。
 
 租税法律主義です。
 なぜこんなことが憲法で定められているのか。歴史の所産です。


 この点、従前、納税の権利は十分に守られてきたのかということです。
 弁護士が「納税者の代理人」として、租税法律主義に照らし、おかしいことはおかしいとして、交渉あるいは訴訟によって戦ってきたのか否かということです。
 これこそ弁護士の役割・使命ではないかと。
 
 先の研修のタイトルは「租税訴訟の新たな展開」です。まさに「新たな展開」です。
 
 私の中では、入国管理業務についても、法律に則った、予測可能性・平等適用がまだまだ不十分な業界ではないかとの思いがありますが、税法もそうでしょう。
 
 以前、会社法の研究者の方とお話をしていたとき、「ダメ駄目、和解なんてしちゃ。判決もらって白黒つけなきゃ、法律の解釈論が進化しない。」といったことを言われました。
 紛争当事者の代理人としては、判決をもらうよりもよっぽどの事情がない限り、和解の方が当事者の利益に繋がることの方が大きいです。
 しかし、相手が国・行政機関である場合、和解は困難な事が多く、特に、租税訴訟は始めた場合は最高裁までやる覚悟が必要だといわれているように、白黒つけるべき事に対しては、判決をもらって白黒をつける方が利益になるのかもしれません。
 和解でも納得できないのなら、筋を通すべき事に対しては筋をとおす、その事に対して弁護士として役に立てることがあれば、これはまさに弁護士の使命としてやり甲斐を感じることだと思います。

(おわり)

2008年4月 5日 (土)

交通事故の示談交渉【松井】

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 大学時代からの親しい友人が去年、交通事故に遭いました。信号のない横断歩道を歩いていたところ、曲がってきたバンにはねられたということでした。
 はねとばされて頭を打ち、意識不明で救急車で病院に運ばれた、気づいたら病院のベッドにいたということでした。
 その後、幸い2日ほどで退院となりましたがしばらく自宅で静養し、様子を見て、人手不足であったこともありほどなく仕事を再開したということです。
 病院から事故の一報があったときは驚いたのですが、退院したということでひとまず安心していました。



 その友人からまた先日、連絡がありました。

友人 「明日、相手方の担当者と示談交渉があるんだけど、何か気を付けた方がいいこと、ある?」

松井 「ないよ、特に。最初でしょ?だったら、まずは相手の言い分、提示額とその根拠をしっかりと訊いて確認したらいいよ。
 だって、どうせ最初はかなり低い提示額のことが多いから。まずは聴くことだよ。で、ペーパーで提案をもらってね。それをうちにファックスしてくれたら見るから。相手の言い分を聴いてから、それに対する形でこちらの反論なりをしたほうがいいよ。
 ただ、まあ、参考までに、損害として賠償が認められる項目はどんなものがあるか、相場額についての定番本もあるからそれをファックスで送っとくわ。」


 翌々日。

友人 「提示してもらった。紙ももらったけど、金額が滅茶苦茶低いような気がする。ファックスで送るから、見て。」

松井 「はあい。」

 事務所でファックスを受け取る。
 やはり!



 分かっていたけど、こういのは本当にヒドイ話だと思います。
 友人が何も知らなければ、提示された額が相当な金額であると信じ、これを受け入れていたかと思うと。
 ものには相場というものがあります。

 ごまかされやすいのが「慰謝料」です。
 交通事故の場合の「傷害」を受けたことに関する「慰謝料」については、通常、入通院慰謝料という形で、通院期間、入院期間、さらには実通院日数といった要素により、おおよその相場の金額があります。
 これは、つまり、裁判で訴えて請求したら、裁判所がいくら認めてくれるのかという相場です。
 ただ、これももちろん機械的に決まるわけではなく、個々具体的な事情によってもちろん増減額されます。

 が、しかし。それでも。
 ものには相場というものがあります。
 
 友人が提示された額は、事務所でたまたま後ろの席にいた大橋にも一緒に見てもらい、事故の状況、その後の状況もざくっと話したうえでざくっと検討しても、え!?一桁間違っている?そうやんなぁ、この表で見て、増減額して、このくらいの金額でどうかという金額と照らし合わせても、一桁違うよねぇ、と2人でうなずき合うような金額でした。

 加害者の運転手は業務上の運転による事故であり、金額は保険会社の担当者ではなく、会社の担当者が出てきて提示してきたとのことなので、担当者もそれなりに「相場」は知っているはずです。
 
 世の中、こういうことでいっぱいです。消費者被害事件の悪徳業者とおんなじ思考回路に行動パターン。
 相手の情報不足、交渉能力のなさ、経験のなさ等につけこみ、自己の利益のみを図る。 フェアじゃないわ。
 確かに、示談交渉であって、商売とは違うけど、根本は同じ。あさましい。



 消費者契約法には次のように記されています。
 1条「この法律は、消費者と事業者との間の情報の質及び量並びに交渉力等の格差にかんがみ、消費者の利益の擁護及び増進に関し、消費者の権利の尊重及びその自立の支援その他の基本理念を定め、国、地方公共団体及び事業者の責務等を明らかにするとともに、・・・もつて国民の消費生活の安定及び向上を確保することを目的とする。」
 
 まさに損害賠償に関する「情報の質及び量並びに交渉力等の格差」が存在し、業者になめられている。
 許せん!分かってはいたけど。


5 
 ということで、友人と晩、対策協議をすることとなりました。弁護士として代理人交渉するか否か。
 交通事故の示談交渉で、正直なところあまりいい気がしないのが、実際問題、代理人として弁護士が就いて交渉すると、業者の態度が変わるだけでなく、提示金額が変わること。
 だったら初めからちゃんとした対応をすべきだと思うんだけど、この業界もなかなか変わらない。

 ネットで検索すると、行政書士の方々のサイトの情報が非常に充実していることに驚きます。
 示談交渉については、相手方からの提示金額やその根拠について、納得を得られないときは、お近くの弁護士会、市役所等で、弁護士に相談されることをおすすめします。依頼しなくても、相談だけでも。
 交通事故は、事件が多数あることから処理も定型的な面がないわけではありませんが、個々具体的な事案によって異なります。
 ネット相談ではなく、会って話して対面で具体的な事情を専門家に聞いてもらい、対応すべきだと思います。
 「情報の質及び量並びに交渉力等の格差」が存在する以上、それをどこでどう補うか。本当は、業者がその格差を縮める努力、情報提供義務を尽くすべきだとは思うのですが、そうはいかない実際がある以上、自分の身は自分で守っていく努力が個々人にも必要です。

(おわり)

以下、つぶやき。
弁護士に相談しに行くってやはり、敷居が高いのでしょうか。
もっと早く、先にこちらに相談に来てくれていたら間に合ったのにといったケースがたまにあります。
大阪府知事になってしまったタレントの橋下弁護士ではないけど、敷居を低くしようとの一貫でこのブログを始めました。
普段、こんなことを考えている、こんな思いで仕事をしているという、見えざるベールを少しずつ、チラミででも剥がせたらと。
今は、弁護士ブログもいっぱいできています。真面目な感じのものが多く、お馬鹿なものはまださすがに見かけないのですが、うちのブログや事務所も模索中。
個人的には、肩の力の抜けた、シニカルなお笑いが好きです。ぶつぶつぶつ。
 あ、そうそう。弁護士による代理人交渉がそうじゃない場合と何が違うかというと、弁護士の場合、交渉が決裂したら、次には提訴があるということです。訴訟代理人として裁判所に提訴し、訴訟遂行をして、判決をもらうということが控えている蓋然性が高い点、交渉の重みが違ってきます。裁判になったらどういう結論がありうるかをある程度わかっているということ。
 弁護士法72条。非弁護士の法律事務の取り扱いの禁止を定めた規定。
 この規定がなかったら?
 個人的にはなくってもいいんじゃないかと。誰が淘汰されていくのか。三百代言の跳梁跋扈の防止が趣旨とは言われていますが、どうなんだろう。それこそ利用者・消費者の選択の幅を広げてみるという余地もあるのではないかと。
 
 

2008年4月 1日 (火)

同性婚について考えてみる~憲法、裁判所、政治と自由~【松井】

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*労働法の大内教授の講演を一緒に聴きました。↑休憩時間中の大橋。


 先日、「4か月、3週と2日」という東欧の映画を映画館で観てきました。
 見終わったあと、その映画の時代の社会的背景についての知識が加わると「家族、婚姻、生殖」といったごく個人的私的な事柄と国家、政府との関わりについて考えさせられました。
 映画自体は、そういった問題を大々的に取り上げたといったものではなく、女子大生の視点から周囲の人間、あるいはこの女子大生の様子をとらえ、その捉え方が意地悪く、でもこれが人間だろうと思わせる説得力でもって、とある一日を淡々と、しかし緊張感をもって描いた映画でした。深夜放送で見かけるような映画で、こういう映画も私は好きです。


 映画をみたあと、日本の刑法で犯罪とされている堕胎罪や、その違法性の阻却を定める母体保護法についてぼんやり考えていたところ、久しぶりに足を運んだ大阪弁護士会の図書館でクレジットカードに関する文献を探していたら、「法学教室」の4月号の憲法の演習問題で、著名な憲法学者が同性婚と憲法について出題されていたのが目に留まりました。こういうことが憲法問題として論じられるようになったんだなとちょっと驚きました。
 また、論文集を見ていたら、研究者の方が「婚姻のポリティクス~アメリカの同性婚訴訟を中心に」として論文を発表されているのをみつけました。
 なんとなく気になり、ネットサーフィンをしていたら、日本女性とスペインの女性がスペインでの法律に則り婚姻したけど、日本では同性婚が認められていないので在留許可の点で不安定な地位にあるというブログを目にしました。
 このときようやく、問題の切実さが実感できたような気がします。
 在留資格については、戸籍上の夫婦であっても、婚姻の実態に欠けるとして在留資格が認められず、退去せざるを得ない場合があります。このとき、本当は夫婦の実態があるのに、入国管理局からはそれを否定され、離ればなれにならざるを得ない方々を間近に見ると胸がつぶれそうな思いになります。
 そこで、ちょっと同性婚について考えてみました。


 日本の法律には現在、同性婚を認めないという条文はありません(松井茂記「法学教室」331、164頁)。
 じゃあ、女性同士、あるいは男性同士が婚姻届を作成し、市役所に提出したらどうなるか。おそらく受理されない。これが受理されなかった場合、憲法上の問題は何かというのが、先の法学教室の演習問題です。
 松井教授の指摘のとおり、憲法24条と14条の問題になるかと思います。
 大前提としては、「結婚する自由ないし結婚の権利は、家族を形成・維持する自己決定権の一つ」となりうるのだと思います(松井茂記・前掲)。

 で、じゃあこれを男性同士、あるいは女性同士について認めないということはどういうことかというと、つきつめていくと、やはり松井教授が指摘するとおり、「婚姻を異性間に限定する根拠は何か」「憲法24条が、婚姻を異性間のものに限定しているのかどうか」が問題になるのだと思います。
 最高裁が判断するとすれば、同性婚が否定されるなら「それが公共の福祉のための合理的な制約」にあたるか否かということとなり(松井茂記・前掲)、例のブラックボックス=「公共の福祉」って何?というところにいきつくのでしょう。
 先の外国人の方との婚姻で、共に日本に暮らしているのに、一方に配偶者として認められるべきヴィザが認められない、法的に地位が不安定という切実な不利益を考えると、これを上回る法的な利益が「公共の福祉」という名で今の日本にあるのか。
 私はないのではないかと思います。
 法律婚の制度によって、事実婚とは異なるれっきとした一線がある以上、この法律婚によって保護されるべき利益を得られてしかるべき個人がいたなら、この利益に優越するほどの「公共の福祉」は見当たらないのではないかと。
 対立利益としてあるとしたら、「同性婚の否定は同性愛者に対する偏見」(松井茂記・前掲)に行き着かざるを得ないのではないかと思います。


 この点、先をいく「アメリカの同性婚訴訟を中心に」とした、「婚姻のポリティクス」小泉明子さんの論文は興味深いものでした(民商’07 137-2-27)。
 この論文は「合衆国において、同性婚訴訟を中心としたLGBTの権利獲得の動きがどのように発展したのか、そしてその反動はいかなる主張に基づき、どのような法的状況をもたらしているのかを明らかにすることである。」とあります。LGBTとは、「Lesbian,Gay,Bisexual,Transsexualの頭文字をとった性的マイノリティの総称」です。
 当初は、原告当事者主義のボトムアップ型であった訴訟も、トップダウン型訴訟として、権利擁護団体が当初から戦略的に関わり、訴訟での争い方も、差別の強調よりも婚姻する権利そのものに訴えを絞るようになったとあります。つまり、提訴する地をどうするか、誰を原告とするかということについて、認められやすいように、戦いやすいように戦略をねって提訴したようです。
 その結果もあり、「マサチューセッツ州最高司法裁判所は州側の主張する同性婚禁止の理由、①生殖に適した環境の保持、②子の養育に最適な環境の保障、③財政保護、のいずれも退けた。」(小林・前掲)とあります。

 しかし「二〇〇四年のマサチューセッツ州における同性婚の実現は、全米各地でLGBTの権利拡大に対する反動(バックラッシュ)を引き起こした。」とあります。
 アメリカでは、「根本的に市民社会は異性婚制度を保持することに関心を持つ、なぜなら市民社会は次世代育成の促進に深く永続的な関心を持つからである。要するに、政府は子に利が関係を持つために、婚姻にも利害関係を持つ。」といった考えで、Defense of Marriage Act (婚姻防衛法)という連邦法が1996年に成立しているようです。ただ、法的な側面からその特異性および合憲性への疑いが指摘されているようです(小林・前掲)。これは、そりゃそうだろうと思うところです。

 この小林さんの論文は最後、次のように記されています。
 「同性婚の管轄外効力をめぐる問題は、グローバル化に伴い国際的な(同性・異性)カップルが増加している現在、切実な問題になりつつある。それはいまだLGBTへの法的保護がなきに等しい日本に置いても早晩出てくる問題であろう。」
 先のスペインでの同性婚をした方のブログの記述を読むと、そのとおりだと思います。在留資格と結びつくと本当により切実な問題。

 ちなみに、別の必要があってパラパラと読んでいた松岡博編の「国際関係司法入門」(有斐閣)にも次のような同性婚に関する記述があり、驚きました。
 「同性婚と日本人の婚姻用件具備証明書の様式改正について」として、日本人が外国の方式により婚姻する場合においては、当該外国官憲から、その日本人当事者が日本法上の婚姻要件を満たしていることを証する、婚姻用件具備証明書の提出を求められることがあるが、日本国から交付される婚姻用件具備証明書には、従来は相手方の性別が記載されていなかった」という。
 ところが、外国のいくつかの国においては同性婚が認められるようになり、同性婚を認める外国にそのような証明書が提出された場合、日本法上も同性の相手方との婚姻に法的障害がなく有効であると解されるおそれが出てきた」ということで、「婚姻の相手方が日本人当事者と同性であるときは、日本法上婚姻は成立しないため、同証明書を交付するのは相当でない」という通知が出されているとのことです(前掲185頁)。


 アップル社のスティーブン=ジョブズの有名なスピーチの中にコネクト・ザ・ドッツというのがありました(確か)。関係ないと思っていた点と点が結びつくという話だったかと思います。
 同性婚等について切実に考えたことは正直なところなかったのですが、映画、雑誌、本、ブログといったところで点と点が結びつき、いろいろと考えました。

 日本の法律について考えるとき、諸外国、特に英米法、裁判例等に目を広げると非常に興味深いです。
 なぜ、なぜ、なぜと問いつめた「一休さん」の「どちてぼうや」の状態になり、既存の法律、法制度に対して、所与のものとしてとらえるのではなk、「どちて?どちて?どちて?」と問い詰める。

 今、8月30日開催予定の近畿弁護士連合会での消費者夏期研修のテーマでクレジットカードに関する規制・問題点について皆で研究しており、その際、やはり諸外国はどうなのかということが議論になります。
 比較法。
 同性婚、生殖関係についても、そろそろ日本でも裁判・政治立法を通じて、新たな動きがおこってもおかしくないと思います。
 タブーなく議論できる社会。
 それは解雇法制についても、先日、大阪弁護士会で講演された神戸大学の労働法の教授、大内伸哉さんも言っていました。
 結果として解雇の規制を緩める方向で活動していた労働法学者が暗殺された、つい数年前のイタリアでの出来事だとか。労働者の解雇というタブー視されがちな事柄についても、まずは学会内、世間でも、自由に議論できる土壌が大事であるといったことでした。

 映画「4か月、3週と2日」の時代のルーマニアと比べても、自由に議論できるということはそれだけで素晴らしいなと同性婚、憲法を考えながら、久々にしみじみと感じました。

 また米国の訴訟活動にしても、ボトムアップ型からトップダウン型訴訟と変遷したというあたり、なかなか興味深いです。
 これは先日、所属会派の下半期総会においてC型肝炎訴訟弁護団の全国副団長を勤められている弁護士の方の、短いものでしたが印象深い講演を聴いた中にも通じるものがあります。
 裁判所だけでなく、世論、国会、法律を変えようというとき、単に原告個人が当事者となって訴訟をすればたれりというものではなく、訴訟戦略に留まらない戦略が大事であるといった話だと私は理解しました。

 目にしたこと、耳にしたこと、いろいろなことがリンクしていき、つながり発展していく感覚。面白いです。
 同性婚。まずは在留資格のところから声を上げていく余地があるのではないかと思います。
 「こんなのおかしい!」と声をあげるシスターローザが周りを変えていく。
 「Separate but equal 」?

 そうそう。確か90年代初め、スザンヌ=ベガが「夜中、泣き叫ぶ声、モノがぶつけられる音が聞こえて、次の日の朝、僕が傷だらけの顔になっているのを見かけても、どうしたの?って聞かないでね」といった内容の「ルカ」を歌い、その数年後、日本でも幼児虐待の問題が切実に報道で取り上げられる事件が頻発する状況となりました。90年代半ば、アメリカで「ストーカー」の本が出版されたというので雑誌で紹介されていたところ、「ふーん」という感じだったのが、ストーカー規制法の成立になりました。そして、90年代終わり、「ドメスティック・バイオレンス」という言葉が日弁連の月刊誌「自由と正義」に取り上げられた後、DV防止法の制定となりました。
 だいたい日本の社会で物事が顕在化していくのはアメリカの5年遅れくらいというのが私のたいした根拠のない実感です。
(おわり)
 

 

 

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