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まだまだ行くよ!

区切りよく、ブログも新たにしました。

2014年7月から、神川松井法律事務所開設後のブログです!

弁護士業務、再開しました!

2014年7月9日、任期満了により、国税不服審判所を退職しました。

翌10日から、新たに
 神川松井法律事務所ー税務・国際・家族ー
を大阪市内に開設し、弁護士業務を再開しました。
国税審判官をしていた4年間で得たこと、
弁護士業務を離れていたために失ったもの、
種々ありますが、まだまだ、ガンガン前に進みたいと思います。
弁護士業復帰に当たっての思いについては、
MATSUI&KAMIKAWA  のサイトに記しました。
本音のところです。
がんばります。
今の気持ちはというと、「まだまだ行くよ!」です。

2010年8月12日 (木)

【お知らせ】弁護士松井淑子の出向について

■ 任期延長のお知らせ  弁護士松井淑子は、平成22年7月10日から任期付き公務員となり、国税審判官として国税不服審判所にて勤務しております。平成25年7月9日までの3年間の予定でありましたが、任期が1年間、延長となり、平成26年7月9日までとなりました。この出向中、弁護士業は兼業禁止のため休業とさせていただいております。
 多くの皆様にご迷惑をおかけし申し訳ありませんが、どうぞご理解いただきますようお願いいたします。

2010年5月 5日 (水)

弁護士のセカンドオピニオン【松井】

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 5月3日の日経朝刊で、顧問弁護士を利用する大企業でも要所要所で顧問以外の弁護士に意見を確認するセカンド・オピニオンを利用しているという記事が載っていました。
 11年前、弁護士業を始めたときからずっと思っていたこと、司法修習生のころからずっと思っていたことですが、個人こそ複数の弁護士に意見を聞くようにした方がいいとずっと思っていました。
 個人ですらなのですから、企業であればなおさらだと思います。
 となるといきつくのは、弁護士と「顧問」契約をするというのは実は不合理なのではないかということです。

2 
 セカンド・オピニオンというのは、医師の世界でよく目にするようになっていった単語でした。
 病気になる。医師の診察を受ける。そして治療を受ける。治癒すればいいのですが、一向に治癒しない。医師に対する不信感。別の医師に診察を受ける。違う診断を受け、違う治療を受ける。そして治癒する。
 なぜこれが今までスムースにいかなかったのかというと、最初にかかった医師への義理立てだけだと思います。
 そうした医師に対する気兼ね、壁が低くなってきて、以前よりもセカンド・オピニオンを求めるのが普通のこととなってきたということです。
 他方で、これがいきすぎると、ドクター・ショッピングとも言われたりするようですが。


 これを弁護士についてみると。
 個人の方でよくあるのが、最初に知り合いなどから紹介された弁護士にそのまま依頼してしまうということだと思います。
 しかし、違和感がある。
 この弁護士さんは本当にこの分野について経験があるのかな?
 熱心に私の仕事に取り組んでいるのだろうか?
 などと違和感を感じながらも、紹介者や弁護士への義理立てから、違う弁護士にあたってみることが出来ない。
 しかしテレビ番組「行列が出来る法律相談所」を見てもよく分かるように、一つの問題でも4人弁護士がいたら4つの異なる意見が出てくるのが法律の世界です。
 裁判の世界に絶対はないと思います。なぜなら、裁判は、絶対的真実の探求ではなくて、主張立証の世界だからです。
 勝つ裁判であっても、しかるべき主張立証がなされていなければ当然、負けます。
 
 私が集中的に取り組んでいる相続の分野に限らず、離婚や交通事故、労働事件といった一見、どんな弁護士でも処理できそうな分野であっても、あたる弁護士によって結論が異なることは十分ありえます。
 以前残念ながら見かけたのは、現象と原因を分けて考え、訴訟では原因を主張立証する責任がある建築瑕疵訴訟で(例えば、雨漏りが現象であり、雨漏りが生じる原因は何なのかが原因。)、ひたすら現象だけを主張立証して、最高裁まで争い負けていた事件です。その方は、判決が確定してから、さらにどうにかならないかとようやくセカンド・オピニオンを求めて、建築問題研究会に相談に来られていました。訴訟記録を拝見した相談員たちは、うなだれることしかできませんでした。
 
 医師の世界では、医療過誤訴訟の経緯もあってか、自院では手に負えないと判断すべき症状に対しては、より専門的な病院を紹介すべき責任があると言われています。
 今後、弁護士の世界も同じ注意義務が法的にも認識されていくことになると思います。 
 自分一人では対応できない、自分の経験能力の限界を知り、認めること、それが依頼者への誠実な説明義務になると思います。
 
 弁護士自身、自己の判断以外の判断があり得ると思うのであれば、他の弁護士にもあたってもらっても構わないと敢えていうべきなのだと思います。
 顧問弁護士のメリットは、その企業の業務をよく知ることになることくらいだと思います。しかし、顧問じゃないと対応できないのか。そんなことはないと思います。
 そうであるなら、個人でも、企業でも、個別の案件ごとに当該問題の経験と知識が豊富な弁護士を捜し、その弁護士に相談依頼し、適切なアドバイスを受ける機会を設けるというのが、消費者目線の法律サービスなのだと思います。
 「顧問」という名で、毎月定額の報酬をもらい縛る必要は、一定期間を見る必要のある顧問税理士ならともかく、弁護士の場合はただの慣習に過ぎないということになっていくのだろうと思います。
 弁護士を消費する消費者の選択肢が増えるということだと思います。

 まあ、一方で、自分の聞きたい言葉だけを探し続け、意に添わない意見を言う弁護士を切っていくという、弁護士ショッピングというのもあるのでしょうが。それはその方自身がまったく不幸なことです。誰も助けてはあげられないけど。

追加
 実は、相続がらみで各種訴訟をいくつかせざるをえず、長年にわたって依頼を受けてきた依頼者の方が、以前、方針説明をしていたとき、「ああ、市役所で相談した弁護士さんも同じことを言ってましたわ。」と口にされたことがあります。そうです。私に依頼していた事件について、市役所の無料法律相談で別の弁護士さんに相談されていたのです。確かに、気持ちはがっくり来ました。信頼されていないんだなと。ただ、それを私に無邪気そうに口にされることから特に悪気はないのだろうと思い、苦笑して流したことがありました。苦い思い出です。「そうですか。よかったです。」と答えて流しました。

(おわり) 

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2010年4月17日 (土)

死にかけた話 〜がんばれルーキー〜【松井】

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1 
 一か月ぶりくらいのブログです。この間、本当にいろいろなことがありました。
 気持ちもようやく落ち着いてきました。まずは散々、あちこちで話した話になるのですが、自分のまとめの意味もこめて、ここで「死にかけた」ことを書いておきます。
 これからはまた、1週間に一つは、自己鍛錬の意味もあってブログを書き綴っていきたいと思います。思ったこと、考えたこと、感じたこと、経験したことをこうして文字にすることに技術的にも意味があると思うので。

2 
 前回書いたように、1週間ほど、「自然気胸」ということで入院し、胸腔ドレナージだけで退院しました。
 1週間後、抜糸の日に病院に行き、念のためということでレントゲンを撮ってみると。
 「松井さん。今日、入院やわ。明日、手術しよ。」
 と言われました。
 見せられたレントゲンの画面では、問題の左肺、今度は下の方が白っぽくなっていました。
 主治医ははっきりとはいいませんでしたが、おそらく退院した時点の穴がまだ完全に塞がらず、また空気漏れが生じていたようです。
 どうりでこの1週間、相変わらず胸が痛んだりしたはずでした。ちょっとした階段を上がっただけで息が上がっていたはずです。そして何よりも。ずっと一週間、ケホケホと咳をしていました。


 手術。
 入院後、翌日と言われていたのが、翌々日になりました。
 なぜ手術するしかないのか。
 A4二枚の紙を手渡されただけでした。大丈夫。ネットでも調べているし。空気漏れの原因のブラを切除する手術。内視鏡手術。
 主治医に説明を求める行動はほとんどとっていません。
 某所から、主治医の技術は悪くはないという信頼できる情報を得ていたので、「主治医に愛想は求めない。きちんと手術してくれたらそれでいい。」という思いでした。
 ただ、手術は主治医一人でするものではありません。
 全身麻酔をかける麻酔科医が手術室にはいました。

4 
 手術当日、15時ころの予定、場合によっては時間が変動するとは聞いていました。
 前の晩0時から、飲まず食わずです。
 朝からは、点滴で栄養水分補給です。
 切除予定のブラについては、MRIの画像を見せられ簡単な説明は受けていました。
 原因として怪しいものがいくつかある、ただ、うち一つはもしかしたら動脈に張り付いているかもしれない、開けてみないと分からない、動脈と張り付いていたら触らないでおくという説明でした。
 もし動脈が傷ついたら。。。などといろいろ妄想が走り出します。

 15時と言われていたのが、17時になったと昼過ぎに告げられました。
 いったん緊張がほぐれていると、15時前、今から手術しますと病棟のナースに告げられました。
 あれよあれよという間にドレナージを引きずって、手術室の方に歩いて向います。
 手術室の前では、前日、挨拶をしにきた手術室ナースが「昨日の○○です。」と挨拶しくれて、一瞬ほっとしたのもつかの間、一緒に手術室に入ると、ベッドに寝るように言われ、横たわるとすぐに両腕を拡げて固定作業にとりかかられました。
 
 全身麻酔。
 聞いていたのは、「点滴を差した腕が少しチクチクして、痛いなと思ったら、もう麻酔が効いて眠りにつきますから。」
 そのつもりで横たわります。

 ただ、手術室ナースがごそごそと準備をしていると、頭の上の方で男性の不機嫌な声が聞こえます。
 「誰がこんなやりかたをしたんや。こんなんしたら使えやんやんか。」
 「ベッド、なんでそっちなんや。もっとこっちやろ。」
 ナースの息をのむ沈黙が手に取るように伝わります。すると、私が横たわったベッドが横に移動させられました。
 頭の上の方の男性はブツブツ言っています。
 何か、嫌な空気だなあ。仲、悪いんだろうな。この麻酔科医はナースからは嫌われ者だろうなとすぐに想像せずにはいられませんでした。

 こんなことを考えていると、何の声かけもなく、いきなり顔にマスクを被せられました。しかし乱暴につけられたので、目玉のところに渕があたっています。
 腕がまだ動いたので、「目にあたって痛い」と腕で指差すと、一応つけ直されました。乱暴に。

 マスクはぴったりつくっついています。
 ああ、息が出来るわーと思っていると。
 ふー、ふー、ふーっ。
 だんだんと息が吸えなくなっていきます。

 おかしい!窒息死するやんか!
 頭の上の男が、不機嫌で、乱暴に仕事をしてミスったに違いない!なおせ!

 しかし、両腕はもうしっかりと固定されて動きません。さらに、息ができずマスクがあって声も出ません。
 ほんの4、5秒のことですが、イライラしていた麻酔科医の単純ミスによって、このまま「窒息死」というのが瞬時に頭をよぎりました。
 腕も動かない、声もでない。
 最後の手段。
 足をベッドの上で思いっきり蹴り上げ、文字通り「ジタバタ」としました。
 そこでガクッと、意識がなくなりました。


 名前を呼ばれて意識が戻ったとき、「あ、生きていた」と思いました。
 麻酔事故で窒息死したと思いました。
 まさに「死ぬ」という瞬間を擬似的に味わいました。
  
 ベッドで横たわり、名前を呼ばれて、手を握り返し、うつらうつらした状態で、ベッドを移動し、ナースステーションの横の個室に移動されたことが分かりました。
 体は動かないけど、だんだんと意識が戻ってきます。

 そして、だんだんと。
 怒りが込上げてきました。

 「絶対、あの麻酔科医を訴えたる。内容証明郵便や。あ、院長宛にもしやな。」
 「いくらが妥当なんだ。死の恐怖、窒息の苦痛。日航機事故のとき死の恐怖の慰謝料という裁判例があったような気がする。100万円くらいか。許さん!」

 寝ながら、頭はカッカッかとするのですが、体は動きません。
 そうして一晩が過ぎました。
 体が痛くてほとんど夜も眠れませんでした。

6 
 今回の入院は4人部屋です。
 部屋に戻ると、主治医が様子を確認しにきました。麻酔の文句はやはり面と向っては言えませんでした。
 手術後、3日目、麻酔を担当した麻酔科医ですといって男性が現れました。
 ぼーっとした感じの20代後半くらいの今時の若者風の人でした。
 「喉は痛くないですか?」「喉は大丈夫ですか?」
 やたら喉のことを聞いてきます。
 喉よりも何よりも、麻酔の掛け方だ!と文句を言うつもりだったのですが、そのあまりにもぼうっとした様子を見て文句を言う気も失せました。
 「喉も次の日は痛かったのですが、今はもう大丈夫です。ありがとうございました。」
 大人の対応をしてしまいました。
 

 そして、主治医の確かな腕と病院のナースの皆様方のチェックのおかげで、当初よりも4日間ほど遅れましたが無事に10日間の入院で退院できました。
 ありがとうございました。
 医療技術はすごいなと身をもってありがたく思いました。
 退院の喜びで、麻酔科医に対する怒りもどうでもよくなってしまいました。

 その後、この麻酔の話は、「死にかけた話」として笑い話としてあちこちで語っています。
 ただ、ナースをしている知人からは「危なかったですね。」と言われました。
 また、手術室ナースをしている友人には、「ヤブ麻酔科医やな。」と言われました。
 また、医療過誤事件を多く手がける友人弁護士からも、「それはヤバかったんじゃない。」と言われました。その際、弁護士には、じゃあ、今からでも責任追及できるのかと問うと、「今、ご飯、美味しく食べれてるんでしょ。」と返されました。
 「先生、今は確かに美味しくご飯を食べれているけど、あの時のあの苦痛、あの恐怖は存在するんです。」と訴えても、友人医療過誤弁護士からは鼻で笑われて相手にはされませんでした。
 弁護士は共感力が大事だということをここでも身を以て学びましたw
 「弁護士さんは私の気持ちを分かってくれない!」

 ということはともかくとして。
 若手の麻酔科医。
 確かに、弁護士でも、医師でも、警察官でも、消防士でも、何でも、専門職は特に誰でも「初めて」のときはあります。
 取り返しのつかない失敗じゃない限り、小さな失敗はあることだろうと思います。それが、ベテランとルーキーの違い。
 分かっています。結果オーライ。今回は大丈夫。

 問題はこれから。
 次は、がんばってくださいね、麻酔科医さん。
 私が手術室の台で最後、足をジタバタさせたこと、気づいていたらきっとその後、手術室は一瞬騒然としていたかもしれないと友人手術室ナース談。
 私の場合、たぶん、筋弛緩剤がまっさきに効いたのだろうということです。
 この失敗を次にどう生かすか。
 病院で情報は共有されるのだろうか。
 期待しています。
 
 
 なお、今回の手術入院で依頼者の方々には大変ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です。この経験を生かしてさらに共感力を高め、技術を高めるよう精進いたします。

(おわり)
*三途の川の向こうに行くところでした。。。
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2010年3月12日 (金)

分譲マンションと大規模修繕工事【松井】

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 知り合いのマンション管理会社の方や管理組合の理事長を経験した方々などからよく聞いていた話ではありますが、分譲マンションの10年に一度くらいは必須とされる「大規模修繕工事」に関わる話で、こんな新聞の見出しが目に飛び込んできました。
 

「マンション修繕費詐取容疑」「1100万円入居組員ら逮捕へ」「架空工事発注か」

 10年3月4日付けの朝日新聞の夕刊です。


 従前、何を聞いていたかというと、大規模修繕工事では億を超える工事代金額が動くので、その際、そのお金に群がる人々がよく現れるという話です。
 今回のこの事件の記事では、次のようなことのようです。
  

約400戸のマンションで、08年7月ころ、大規模修繕工事を約3億5000万円で建設会社に発注。
  下請けに入った会社が、架空工事発注の疑い。
  経緯としては、暴力団組員の家族がそのマンションの一室を所有しており、組員は、管理組合の理事会の役員と進行があった。
  修繕工事業者らが集まって受注金額を調整する会合などに組員が出席していた。
  「府警は、管理組合が修繕業者や受注額を決める際に、組員の関与があったとみている。」
  「09年夏、契約書のない約7千万円の追加工事の実施や、住民が把握していない下請け業者の存在が発覚。」

 ということのようです。


 この事件は氷山一角に過ぎないのではないかという気がします。
 住民が工事の素人である限り、建設業者にだけ任せるのは危険でしょう。
 工事に関しては、信頼出来る一級建築士事務所などに、別途費用が要りますが、設計施工監理を委ねるのが得策だと思います。
 住民の立場にたって、工事の内容、金額も含めて適否を判断し、工事中も施工の是非について監理してくれる第三者が必須ではないかと思います。
 この費用をケチってかえって、損することが多々あり得るのではないかと思います。
 この点、大規模修繕工事の実態ってどうなってるのか、興味津々です。
 たぶんきっと。
 管理会社の言いなり、任せっぱなしのマンションが多いのではないでしょうか。。。
 気になるのは、この事件のマンションを担当していた管理会社が何をしていたかということです。まさか今時、自主管理のマンションでもないと思いますので。
 場所は、「大阪市北区」とありますが。どこのマンションなんだろう、いったい。
 よく耳にしたのは、管理会社がキックバックを得ていることが多い、管理会社にとってはそれが大きな収入源となっているところもある、という話です。
 もちろん、いい弁護士と悪い弁護士がいるというのと同様に、いい管理会社と悪い管理会社があるというだけのことかもしれませんが。
以上
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2010年2月20日 (土)

専門家のコミュニケーションの意思〜39歳、初めての病気入院〜【松井】

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 先日、背中の肩甲骨のあたりが今迄に感じたことのない刺すような痛みが続くことがありました。
 肩こりがひどくなったのかと気にはなっていたのですが我慢できない痛みでもなく放置していました。
 数日後、電車に乗っていると、呼吸しにくくて苦しさを感じることがありました。
 その翌日の朝、道を歩いていると、目眩がして、呼吸が本当に苦しく、右足がガタガタと震えて、このまま道端で失神してしまうのではないかと思う状態になりました。ぐっとふんばって耐えたら、その後持ち直しました。その日、そのまま日帰り東京出張に出かけました。取りやめにしようかとも思ったのですが、行かないわけには行かず、なんとか新幹線に乗り、ひたすら背もたれに身を預けてぐったりとしていました。
 翌日、さすがにまずいと考え、午後診で近所の内科を受診しました。症状を伝えると、すぐにレントゲンを撮られ、「気胸やわ。」と言われました。見せられた肺のレントゲン写真は、左胸の上部の方だけが黒くなっていました。肺が破れ、もれた空気が胸腔内に溜まり、肺を圧迫しているということでした。
 紹介状とレントゲン写真を渡すから、すぐにこの病院へと言われました。
 今からですか?と訊くと、何をバカなことを言っているのかという顔をされました。

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 タクシーで、紹介された病院に行きました。すぐにまたレントゲン写真を撮られ、「気胸や。」と言われました。「入院できる?すぐに処置が必要やわ。」と。
 管を差して、空気を抜くということでした。
 息は苦しいのですが我慢できないほどではありませんでした。
 しかし、これはやはり動き回らない方がいいのかとその場の空気を察し、そのまま即入院になりました。
 近所の内科を受診して2時間後、病院のベッドで横になり、脇腹に麻酔を打たれて管を入れられました。
 あまりの痛さに身動きできず、またレントゲンを撮る際には座薬を入れられたうえで車いすで運ばれました。
 そのまま2日間、夜もよく眠れず、ひたすら内蔵にあたる管の痛みに耐えるだけの日々でした。
 
 入院直前、慌てて依頼者の方々に連絡をとり、直接にお電話で話をしたり、スタッフの方から事態を説明してもらって、予定していた打ち合せをキャンセルさせていただきました。
 幸い、裁判期日は次の火曜日まで入ってはいませんでした。また翌日は、祝日。なんとかなおそうと思いました。


 うまくいけば金曜日には管が抜けるとのこと、当日、CTを撮りました。肺の空気はほとんど減ってはいませんでした。管を差したのは若手の医師でした。主治医のベテラン医師曰く、「管の位置が『効率の悪い場所』にあった。」ということでした。管を差し直すということになりました。
 今度はベテラン医師です。チクっとする痛みに耐え、8cmほど管を抜いたといことでした。
 このまま月曜日まで様子を看るということになりました。
 数日経過して慣れたせいもあるのか、ようやく管を入れていることの痛みもそれほど感じなくなりました。
 しかし、お風呂には入れません。何もしなくても、人の体は油を帯び、独特の臭いを発し、髪の毛もべったりとしてくることが分かりました。
 チェスト・ドレーン・バックを据え付けたローラー付きポールを手にして、ようやく1階の売店などにも一人で出向けるようになりました。
 しかし、常に、脇腹からは管が出て、自由には動けません。
 ものすごい無力感を感じました。


 そして月曜日、肺のもれは治まっているようだということで、管を抜きました。若手医師が担当です。様子を見て、翌日退院ということになりました。
 翌日、レントゲンを撮ると、肺の空気が抜けきっていないということでした。
 退院できるという喜びが一瞬のうちに引いていきました。
 困った表情を見せながら、医師は、自然に消えると思うので一応、退院にしておこう、苦しくなったらすぐに来て、と言って、病室を去っていきました。
 そして、午前9時30分、退院しました。個室の料金8万円ほどどと医療費8万円ほどでした。


 こうして初めての病気入院の6日間が終わりました。
 ご迷惑をおかけした依頼者、ご相談予約の方々には大変申し訳ありませんでした。
 若くて、背が高く、やせ形の男性に多いというこの病気。なぜ私がなったのかは分かりません。特に管楽器を演奏するということもなく。運動は週に一度、1500mを泳ぎ、さらにはヨガ教室でヨガをしていました。それなりに運動はして、健康管理に努めているつもりでした。
 「健康管理は責任感から」という言葉もあるようですが、自身ではどうしようもないことがこの身に起こります。
 また、「病院」という特殊な場所においては、患者は本当に無力だということがよく分かりました。
 最初の夜は、痛みと情けなさとで、消灯の21時以降、暗い中で、ブクブクブクブクとドレーン・バックの音だけが聞こえていると、自分が金魚鉢の中に入れられたようで、泣きたくなりました。
 痛みが取れたら取れたで、ただあまりにも非日常のため、スタッフに仕事道具を持ってきてもらっていたのですがなかなか集中してとりくめず、結局、友人がもってきてくれた「ノルウェイの森」上下巻をベッドの上で読むくらいのことしか出来ませんでした。
 また、このまま空気が抜けず、手術をせねばならないとなったらどうしよう、その手術でもしかしてミスがあったらとグルグルと考えてしまい、「遺言書」を書いておこうかという気持ちにもなりました。入院を経験すると遺言書を書きたくなるというのは本当でした。


 そして何よりも考えたのは、「病院」という特殊な空間において働くドクターやナースの働き方と「法律事務所」で働く人々との対比です。
 今回、ドクターは若手もベテランも、私に言わせれば信じられないほどのコミュニケーション能力のなさでした。私の病状、今後について、きちんと時間をとって説明するということがほとんどありませんでした。唯一あったのは、2日目、CTを撮ったあとのCT画像を見せながらの説明のときくらいでした。
 ドレーンも、その管に出た液が何を意味するのか、どういう状態ならどういうことなのか、気胸という病気はどういうものなのか、退院後、どういうことに気をつけたらいいのかといった、患者として知りたいことについては何も積極的な情報発信がありませんでした。
 驚きでした。
 なぜなら、私もまだまだ不十分かもしれませんが、自身が法的なこと、訴訟手続きのことなどを依頼者の方に説明する場合、極力、理解を確認しながら、本当に理解してもらっていることを確認しようと務めながら接していたからです。そういった意欲はまったく感じませんでした。
 様子を病室に看に来ても、ドレーンの様子をみたら、さっと病室を出て行ってしまいます。
 忙しいのだろうからと思い、私もいちいち説明を求めること、質問をすることももうしませんでした。なんだかこの人たちにそういうことを求めても無駄なような気がしていたからです。初診の際から、レントゲン写真を見せつつ、あとは電子カルテの記入入力をひたすらおこなって画面の方ばかり見て、患者の方を看ようとはしていない姿に驚いていました。ベテラン医師がそういう態度であれば、当然、その弟子の若手も同じような態度を患者にとるものだろうと納得していました。疑問にも思わないのだろうと。
 
 またナースの方々も、多少、愛想はあったものの、似たような印象を受けました。脈拍をとる、聴診器で胸の音を聞く、指に機械を挟む。でもその機械が何の機械で、数値が何を意味するのか、聴診器で聞いた胸の音に異常があるのか、ないのか。何も言わないということは、まあ悪くはないのだろうと理解せざるをえませんでした。
 
 一言で言うと。
 全てが流れ作業で、機械的でした。

 これが今の病院の一つの姿なのかと驚きました。
 ナースの中には、もちろん積極的に声をかけてきてフレンドリーな方もいらっしゃいました。友人のナース曰く、今の病院は「感情労働」であって、本業以外のところで神経をすり減らし疲れるということだったけど、確かにそういう面もあります。
 ただ、患者としてまったく無力な状況で病院という施設に入り、なすがままでしか存在がありえないという者にとって、このような「病院」の存在は余計な不安感をさらに与えるだけなんだろうと思います。
 私の場合、ネットで気胸の情報を確認したり、ナースの友人からいろいろと教えてもらって安心を得ました。
 なので、今回は、多くを求めず、とにかく水準の医療行為をしてもらえたらそれでいいと自分で納得していました。コミュニケーションはとれないけど、客観的な行為としてしかるべき医療行為、判断をしてくれて、治ればそれでいいと思いました。

 ただ、何も分からない無知な立場の人にとって、その不安感を解消させるのは「情報」と「コミュニケーション」だと実感しました。ただ黙々としかるべき専門家としての行為をしていれば、それで専門家として事足れりというものではないと。
 
 「法律事務所」に「弁護士」を訪ねて相談に来られる方々も同じ気持ちなんだろうと思います。慣れれば、別にどうということはないのですが、初めて弁護士に相談するとなると、自分は何も分からない無知な状況で、知識と経験のある人の力を借りにくるのだと思います。
 そのとき、弁護士や法律事務所のスタッフが、相談者とコミュニケーションをとろうとはせず、機械的に対応したら。
 水準の行為をしていたらそれでいいのか。
 相談者にしたら、分からず、放り出されたような感じで、自分の知らないところでことが動き、泣きたくなるのではないかと思います。
 
 今回、本当にいい経験でした。
 そしてまた。「気胸」というすぐに深刻な状態等になることはない程度の病気で良かったと思います。
 「一病息災」ということで、これからの日々を過ごしていきたいと思います。

追記 弁護士1年目のとき、遺産分割の審判までを他の弁護士に依頼していたという方が、その弁護士に不満を抱き、即時抗告を他の弁護士に依頼したいということで、私が担当になったことがありました。その方のお話をお聞きして、なるほどと思っていました。曰く、とにかくその前の弁護士は、その依頼者との方との「時間」をとっていなかったのです。期日、裁判所で待ち合わせをしても、会ってそのまま部屋に入り、終わったらそのままサッと一人立ち去っていく。依頼者の方にしたら、本当に相手にされていない、話ができないという不満感を持っていたのです。客観的には、それなりに書面上、きちんと仕事をされていたように見えました。しかし、いくら客観的に素晴らしい仕事をしたとしても、依頼者の方にそのことが伝わっていなければその仕事は存在しないに等しいものだということを一年目にして分かったのは私は幸せでした。独立して自分で仕事をコントロールできるようになってから、極力、時間を取るよう努めてはいます。それで依頼者の方が本当に納得していただいているかどうか、もしかしたらご不満をおもちのこともあるかもしれませんが。
 ただ。不満の声は、本人の耳には入りません。。。私の耳には入らない。法律事務所も、弁護士も「お客様アンケート」を実施すべきなのかもしれないなどと考えています。

(おわり)
 
*朝食。なんとなく泣きたくなるような姿でした。
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2010年2月 5日 (金)

「著作権の世紀」〜あるべき姿について考え続ける〜【松井】

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 東京の福井健策弁護士による「著作権の世紀ー変わる『情報の独占制度』」(集英社新書、2010年1月)を読みました。

 大阪の川村哲二弁護士の充実したブログサイトで同著書が絶賛されているのを目にし、大阪の旭屋書店で買ったものです。川村弁護士のアマゾンリンクのサイトから買うべきだったのですが(笑)。
 http://stuvwxyz.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-c960.html

 読んでみて、つらつらと思ったことをまだまとまりがつかないのですが、備忘録代わりにここにメモとして記しておきます。
 過去にも、著作権法についてつらつらと思ったことをメモしているその延長線上のものです。
 http://osaka-futaba.cocolog-nifty.com/futaba/cat5929423/index.html


 「著作権の世紀」は、

「この厄介な制度に魅せられ、あるべき姿を考えつづけた先人たちに」
ととても魅力的な書き出しで始まっています。
 著作権でも他の法律についても、やはり根底にあるのは「どうあるべきなのか」ということであって、これは細かい条文が一度作られたらそれで終わりというものではなく、「どうあるべきなのか」をずっと「考え続ける」というのが「法律」なのだということに改めて気づかせてくれるフレーズでした。

 で。
 これからの著作権はいったいどうあるべきなのか。
 そもそもどうあるべきものとしてこの著作権法が制定されたのか。

 この点、「著作権の世紀」では問題点の指摘や、いくつかのあり得る方向性が示されています。ただ、敢えてなのだろうとは思うのですが、著者の明確な意見は声高には叫ばれてはいません。すごく抑制された文章で語られています。

 各章、ユーモアに溢れていて興味深いのですが、なかでも秀逸なのは、終章「情報の世界分割」だと思います。<情報の海>の中で、著作物、個人情報・肖像、営業秘密、商標・特許・意匠の概念と力関係が一つの図の中で図示されています。
 「著作物(創作的表現)」に対しては、「制限規定」というものが相対しています。
 
 ものごとを考えるときに私がよくやるやり方は、「もしこれがなかったらどうなるのか」と極端を考えてみるというやり方です。またそれに対し、「これがもっと規制、縛り等が強くて100%以上のものであったらどうなるのか」とこれまた対極を考えてみることです。
 
 著作権法がなかったらどうなるのか。
 あるいは逆に、著作権法がもっともっともっと、著作者に著作物の120%のコントロールを認めていたらどうなるのか。

3 
 こういった極端な観点をふまえつつ、じゃあいったい「どうあるべきなのか」という価値観が加わり、加減が生じるのではないかと思います。
 これはやはり法律の目的、そして憲法からしか出てきようがないのではないかと思います。これは、というのはどうあるべきかという価値観です。それに加えて、立法事実という事実を踏まえる。
 抽象的な価値観でいえば、ずっと前の著作権法に触れたエントリーでも書いていましたが、「文化の発展に寄与すること」。これしかないのではないかと思います。
 憲法が21条で情報の流通を保護の対象とした趣旨が思い浮かびます。
 「自己統治」と「自己実現」という言われ方をします。
 何をという点に焦点をあてずに、発表の自由をまず保障しています。ちなみに憲法21条2項は検閲の禁止です。
 発表させる、情報をまず市場に流通させるということに価値をおいています。
 ただその中でも特に政治上の事柄については特に保障が厚くされるべきという価値観が働いています。なぜか?考えたことがない方は一度ぜひ考えてみてください。
 
 このような観点からすれば、ちょうど一年ほど前にふれた塩澤一洋教授の「公表支援のフレームワーク」としての著作権法という捉え方が一番、しっくりくるのではないかと思います。著作権法の「あるべき姿」を考えるに。
http://osaka-futaba.cocolog-nifty.com/futaba/2009/01/post-b437.html
 
 著作権法51条で定められた著作権の「存続期間」について、現行の「著作者の死後50年」をさらに延長すべきかどうかが議論されているようです。
 まさに「どうあるべきなのか」という価値観と価値観のせめぎ合いです。
 なんのための著作権法なのか?という原点から考える意外、理論としてはないかと思います。あとは価値観と価値観の力関係か?
 

 福井弁護士の「著作権の世紀」では、「マッシュアップ」の事例として、あの知る人は知る「サザエボン」が写真入りで紹介されています。
 これは、サザエさんの方からもバカボンの方からも訴えられ、敗訴したようですが、こういうものが生まれるということこそが「文化の発展」なのではないかと思えます。
 ただ、サザエさん側やバカボン側は、自身が作り上げたものが勝手に利用され、改ざんされ、それで別の者が多大な利益を受けるということがフリーライドのようなもので許せないと言う気持ちになるのだろうとは思います。
 ただそうであるのならお金での解決をはかり、「著作物」というかはどうかは別にしても、新たな「創作物」として世の中での流通を図る方向でものごとを整備する方が種々雑多な情報の流通が図られるものとして「文化の発展に寄与」するのではないのかなという気がします。

 このあたりが私の中でもうまくまとめ切れないところなのですが。。。
 塩澤教授が言う、著作者が安心して著作物を公表できる仕組み、という視点で捉えたら、どこまでの仕組みを用意すれば足りるのかということだろうとは思うのです。
 単なるそのままの利用は別にして、いかなる場合も複製利用、改変そのものを許さない、保護期間は50年じゃなくって70年ということで、安心して公表するということに繋がるのか。 
 バカボンの赤塚不二夫さんは、「サザエボン」が登場したとき、当初は法に問うつもりはなかったようです。むしろ、「なぜ自分が考えつかなかったのか」と悔しがったとか。確かにバカボンの「うなぎ犬」も「うなぎ」と「犬」の合体でのおかしさです。

 一定のこういったものが許容される著作権法であって欲しいと私は思います。 
(おわり)
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2010年1月26日 (火)

年賀状と離婚事件の元依頼者の方々~「代理人」制度~【松井】

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 先日、お年玉くじ付き年賀状の当選番号発表があったようです。昔は、いただいた年賀状からちょと期待しつつ番号チェックをしたものですが結局、記念切手しか当選したことはなく、そのうちに番号チェックもしなくなってしまいました。
 この年賀状、知り合いの方々の中では、いろいろと思うところあられて葉書ではださずにメールやウェブで新年の挨拶をされるかたも少なくはありません。
 私も、年末の大慌ての事態を迎えると今年でもう止めようかなという気持ちにもなったりします。


 ただ、宛名書きや図柄などは印刷するのですが、一人一人送り先を確認するとき、さらにはひと言添えるとき、その時間が非常に大事だなと思います。
 名簿を確認しているときもそうですが、印刷された葉書を手にとり、宛名を確認するとき、その人のことを考えます。そして、その人と自分との間柄、過去の出来事を振り返ります。
 年末、twitter上で年賀状のことが話題となったとき、「年賀状」は「感謝状」だと表現されている方がいらっしゃいました。
 その人のことを思い、ありがとうという気持ちになる大事な時間が年賀状をしたためるときだと。
 そのとおりだと思います。
 
 そして年明け、私にとっていただいた年賀状で毎年、なによりも安心するのは、過去、担当させていただいた離婚事件の当事者の方々からの年賀状です。
 元気なお子さんの写真付きのものだったりすると、ああ、あの当時、あれほど小さかった子が小学校に入学し、こんなに大きくなっている、添えて頂いている言葉からも落ち着いた様子がうかがえて、ほっとした笑顔が自然ともれます。
 また、ご自身の近況も添えていただいた年賀状をいただいたりすると、これも、「ああ、お元気で働いておられるんだな。」と安心します。

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 会社の依頼者の方でも担当者や社長さんから近況をいただいたり、その他多くの終わった事件の依頼者の方々から、ひと言近況が添えられていると、当時の事件や依頼者の方との会話を懐かしく思い出したりします。そして、現在の落ち着いた様子に安心します。

 ただ、依頼者の方の中でも、ひときわ安心するのがやはり離婚事件の依頼者の方々です。なぜなら、依頼を受けた事柄として、その方のもっとも重要な人生の岐路に関わらせて頂いたことになるからだろうと思います。
 まだ結婚されて1年ほどであったり、30年以上経ってからの離婚の決断であられたり。お子さんはまだ赤ん坊だったり、4歳だったり。
 弁護士としてお手伝いさせていただく状況だったということは、やはりご本人だけでは対処しがたい困難な状況に置かれていた方々です。
 そこで無事に、調停離婚が成立したり、あるいは裁判となって離婚判決を得たり、和解で終わったり。法定の手続を経て、解決に至っています。
 そこにおいては、どうしても「あのときこうだった、このときこうだった」というやりとりが主になります。それは、自身でも後悔する言動であったり、怒りが再燃するような言動も出てきます。
 そういった事柄と向き合い、自分の人生は自分で決断して自分で道を拓いていくしかないときりひらいていかれた方々です。

 相手は、夫であろうが妻であろうが、そのときいったんは自身で選ばれた道です。その道を否定するかのような選択をするのは、無意識の中においても辛いものがあるだろうとは思います。
 そこに「代理人」として関わらせていただき、依頼者の方の荷物を運ぶのを手伝わせていただき、ちょっとでも楽な気持ちになっていただき、対外的な代理人活動をして、ご一緒に新たな道を模索していきます。
 
 正直なところ、わたしは代理人活動をするにしても一番しんどいのが離婚事件の代理人です。
 依頼者の方のずっしりと重い思いにまず共感させていただかないと仕事としては進まないものだと思っているからです。
 離婚事件については、弁護士のところに相談に来る前に「弁護士以外」の方にお金を払って相談されている方も意外と多いようです。
 ただ、そういった「弁護士以外」の方と「弁護士」の一番の違いは、「代理人」として活動できるかどうかです。「代理人」にならない場合は、いわば横からの助言人に過ぎないのではないかと思います。「代理人」になるということは、対外的にその方を代理することであって、いわば一部を引き受けたような重みが生じます。
 またそれが、相談者にとっては、「弁護士への依頼」のいいところではないかと思います。
 弁護士に依頼することによって、重い荷物を一人で抱えるのではなく、いっしょに下から支えてくれる人が加わったような気持ちなるのではないかと思います。
 自分が直接に相手と話をしなくてもいい、これが大きな救いになると思います。それが「代理人制度」。
 弁護士法によって、対価をもらって代理人として法的な事柄に関われるのは弁護士だけだとされています。
 その制度趣旨の是非はともかくとして、「代理人制度」は素晴らしい制度だと思います。プロ野球選手の契約更改においても、なぜ野球一筋で来た人が自ら、複雑な自身の権利関係に関する交渉に当たらないといけないのか。この点だけでも、別のプロに任せられたら自身は野球に専念に出来るのに、というものだと思います。
 
 自身の事柄は自分一人で解決しないといけない、というものではありません。もちろん、最後の決断をするのは自分しかありませんが、その過程においては一緒に荷物運びを手伝ってくれる人にお金を支払い、助力を依頼してもなんの問題もありません。荷物運びのプロ、その道のプロというものがいます。
 利用できるなら利用された方が結局、ご自身にとってプラスだろうと思います。

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 今年の年明け一月、大阪弁護士会への登録によって年間で割り振りをされている某市役所への無料相談会の担当者として2回ほど相談担当をしました。
 気軽に弁護士に相談に行けるよい制度だと思います。
 そこでは一人25分で、7名の方の相談を3時間で受けることになっています。
 やはり多いのは、離婚のご相談です。以前は、多重債務の相談が多かったのですが、さすがに最近は減ってきたことを実感しています。
 ただ、絶えずあるのが離婚のご相談です。
 そこでまず問いかけるのは、「あなたはどうしたいのですか。」ということです。
 その上で、助力が必要なら弁護士に依頼すべきです、と。助力が必要というのは、法的な対応の仕方によって結論が異なりそうなときです。もし弁護士に依頼する費用が用意できないというのなら、通常「法テラス」によって立替制度もあることを伝えます。また、大阪弁護士会では弁護士紹介というサービスをしているので、知り合いに弁護士がいなければそのサービスを利用したらよい旨も伝えます。

 25分だけの相談です。その中で先の見通しがたってほっとされる表情を見せる方もいらっしゃいますが、その後、その方が弁護士のもとに行っているのか、依頼されているのかは分かりません。
 弁護士に相談し、依頼するのかどうか、法律・交渉の専門家である弁護士に代理人活動を依頼し、助力を要請するのかどうか。
 それもその人自身の大きな判断・決断の一つです。
 そして弁護士に依頼するときに、どういう弁護士に依頼するのか。
 すべては自身の選択と決断です。

 年末、年賀状を作成したり、年明け、いただいた年賀状を手にとっていると、ああ、この仕事は本当に人ととの出会いだな、いい方々と出会えて幸せだったなと実感します。
 
 相談される方々が、そう思える弁護士に出会われることを祈っております。
 
 また、自分がそう思われる弁護士の一人であるように精進したいと思います。
 「あの弁護士、最悪やったわ。」と言われているようなことがあるかと思うとそこはやはり涙が出ます!「ふん、あんな相談者、二度とごめんやわっ。」と思えるくらいならきっと楽なのでしょうが。
 
(おわり)

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2010年1月23日 (土)

「節税」の内容【松井】

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*年末、ビールと大橋弁護士。


 奥村佳史さんの「法人税が分かれば、会社のお金のすべてが分かる」(光文社新書)を読みました。
 
 

 非常に面白い本で、楽しく読めました。
 身近な事案から説き起こして、法人税法の趣旨について触れています。
 くだけた文章でありながら、次のようなことに触れられた骨太な本です。
  

法人税の納税義務者
  法人税の課税標準
  法人税の税額計算
  繰越欠損金制度 
  受取配当の益金不算入
  棚卸資産と売上原価 
  減価償却 
  役員給与
  交際費、寄附金、使途秘匿金
  貸倒損失と貸倒引当金
  資産の評価損
  圧縮記帳などの節税対策
  申告と納付

 こんな内容について、「たくあんで法人税を納めることができたなら」「赤字でも法人税」「みずほ銀行はなぜ法人税を払わないのか?」「投資会社社員は電話が怖い?」「決算日、肺が凍りそうです」「リゾート施設を買ったなら」「名ばかり管理職の次は、名ばかり役員」といった章のタイトルで、各章を書き出されています。


 そのため、読み物としても非常に読ませる内容で面白いのですが、著者の骨太の意見、視点も随所に見受けられ、ほれぼれとします。
 私が、やはりそうだよねと腑に落ちたのは、節税の点に対する著者の言葉でした。
 
 217頁
 

「本当に有効な節税対策はあるのか」
という箇所です。
 
「私が節税対策に求める効果は次のとおりです。
  (1) 課税の繰り延べではなく、永久に税負担が減少するものであること。
  (2) 会社が余計な支出をしなくてもいいもの
  (3) 会社の損益計算書に損失が計上されないもの 」

 

「皆さんがよくご存じの節税対策は右の条件を満たしますか?
  例えば、慰安旅行に出かけるという節税対策は、(1)を満たしますが、(2)と(3)を満たしません。
  乗用車を購入する方法も同様です。」

  そうしたうえで、一つだけこれらの要件に当てはまるものが一つだけある、と紹介しています。
  そして。
 

「実はこの方法、上場企業ではほとんどの会社がご存知です。けれど中小企業にはあまり知られていません。その理由は簡単です。」

 
「このような節税プランを紹介したとしたとしても、ビジネスとしてうまみのある業者が存在しないためです。」
 「つまり、節税対策というのは色々とあるけれど、これを商材として販売した場合に儲かるというものだけが世の中に広まるのです。そうでない節税対策はいくら有効なものであっても、宣伝してまわる人がいないため、世の中に広まっていかないのです。」

 
  そして次にこのように述べています。
 
「税理士事務所の中にも、生命保険の代理店を営んでいるところがあります。生命保険は節税プランとして薦めるけれど、自己株式買取は薦めない。こういった税理士さんがどういった思考で動いていらっしゃるのかはわかりません。」

 
3 
 弁護士業においても、本当に弁護士一人で出来る仕事というのは限られています。
 依頼者の方に、建築士さん、税理士さん、会計士さん、不動産業者さんなどを紹介し、これらの別の専門業種の方々と共同しつつ仕事を進めることもあります。このようなとき、キックバックのような類の金銭を他の業者から受け取る弁護士はまずいないと思います。
 依頼者の正当な利益のために働くという大前提からすれば、第三者に対して依頼者にお金を使わせることによって、その第三者からお金が入り自分の懐が潤うような構造は、依頼者の利益のためにといいながら、実際には自分が儲けを手にいれたいがためにという構造にならないといはいえないからです。
 それでも、いや、客観的に依頼者の利益になっていれば何も問題ないんだといったことを述べられていた某業種の方の意見を目にしたことがあります。
 正直なところ、驚きました。
 客観的に「公正」であるかどうかなんて、判断は困難です。
 そこでまず大事なのが、「公正らしさ」、「らしさ」という構造、仕組みを守ることです。
 こういった考えから定められている法律もいくつかあります。
 
 奥村佳史さんも、節税プランと生命保険を例にとってこのことを述べているのだろうと思います。
 これはたぶん、専門家としてのプライドの問題なんだろうと思います。
 とにかく常に、依頼者の利益を最優先させ、依頼者の利益だけを考える、自分の利益は結果論として出てくるもの。それが弁護士の姿だと思います。
 ある先輩弁護士が仰っていた、事件処理の際に気をつけているということ。
 「依頼者に出来るだけお金を使わせないこと。」
 
 そのとおりです。なので、実は、不動産鑑定士さん、一級建築士さん、税理士さん、公認会計士さん、不動産仲介業者さんなどを紹介し、それらの方々の協力を得ざるをえないときは非常に心苦しいというのが本当のところです。
 私が兼ねることが出来ればいいのですが、そんな能力もなく。
 また、裁判において裁判所は、第三の専門家の意見は一応、尊重するということが多々あるのも事実であり。なんともまあ、難しいです。
 紛争解決において、他者の力を借りる限りはお金がかかります。
 お金を節約しようと思えば、正直なところ、他社の力を借りずに自分一人でことに当たるということになります。

(おわり)
*昨年。西表島を旅行中の松井の姿。こんなもんです。。。基本、ジーンズ。
 
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